2014年は西三河で起きた「三河一向一揆」の終結から450年になります。安城市歴史博物館では昨年11月30日~今年2月2日、特別展「三州に一揆おこりもうす~三河一向一揆450年~」が開かれました。期間中には第4回松平シンポジウム「三州に一揆おこりもうす~三河一向一揆の本質を問う~」があり、中世史学者や宗教史学者が一次史料に恵まれない三河一向一揆の実像に迫りました。

 

安城市歴史博物館で行われた第4回松平シンポジウム

 

三河一向一揆は桶狭間の合戦後、松平(徳川)家康が三河国を統一する途上で最初にぶつかった難関として知られています。西尾市では一揆方として吉良義昭 (よしあきら)が東条城(吉良町)で家康方と対立しますが、結局は家康に降参して三河国外に出奔し、鎌倉時代から西尾市域を領した三河吉良氏は没落します。西尾市にとっては中世吉良氏没落450年の節目とも言えます。

 

ひとまず、特別展の図録に掲載されている「一揆の経過」を引いてみます。

 

一向一揆関係地図

 

【1563年】

 

▼6月には上野城(豊田市)の酒井忠尚が離反、家康と対立状態になる

▼秋に上宮寺事件、菅沼藤十郎がもみを奪い取る

▼10月ごろ、東条城の吉良義昭が反旗を翻す

▼12月初旬までに3カ寺坊主衆が反家康の立場を鮮明に

▼閏12月、吉良方面の反家康一揆の抵抗続く

【1564年】

▼1月に上和田・針崎で戦闘

▼1月25日?に野場の古城(または六栗の屋敷)に籠城する夏目吉信らを深溝松平家が攻め、吉信を捕える(家康により赦免)

▼2月13日?、家康方唯一の敗北

▼2月半ば?、小豆坂合戦

▼2月末~3月初旬、和議の交渉

▼4月以前に水野元信軍の進攻で桜井松平、荒川、吉良は沈静化か

▼3月半ば過ぎ~4月上旬、家康領国から坊主衆を追放

▼9月6日、上野城の酒井忠尚が逃亡

 

こうした時系列の中から、西尾市に関連する部分をピックアップしたいと思います。

 

まず時代背景をおさらいしておくと、1560年の桶狭間の戦い後、今川氏と絶縁して織田氏と結んだ松平元康(家康)は61年4月、今川方だった吉良義昭の守る東条城の攻撃を始めます。酒井正親らが西尾城を攻め、今川方の城代・牧野貞成を追います。9月13日には松平勢が東条城西の藤波畷(ふじなみなわて)で戦って義昭を降伏させます。義昭はその後、東条城の近くで暮らしていたとも伝わります。

 

【東条城】吉良義昭VS.松井忠次

 

義昭降伏後の東条城について、家康は一時的に鳥居忠吉らに預けますが、62年4月13日、青野松平氏で幼少の家忠に与え、松井忠次 に城代を命じています。吉良氏の旧臣層も加わり、ここに「東条松平氏」が発祥しますが、1年半後の63年10月ごろに義昭の反旗で東条城が占拠されます。義昭がどのように東条城を奪回したのか分かりませんが、忠次にとってはたいへん不名誉なことでした。

 

東条城跡から幡豆方面を望む

 

東条城を追われた家忠と忠次は、「幡豆取出(砦)」にこもって義昭とにらみ合います。幡豆取出がどの城郭を指すのかは分かりませんが、当時、旧幡豆町域には幡豆小笠原氏がいました。幡豆寺部城(西尾市寺部町)には小笠原左衛門佐、欠城(同市西幡豆町)には一族の富田新九郎がいたとされています。63年秋の一揆勃発で小笠原氏は当初、義昭と共に一揆に加担するつもりだったようです。

 

幡豆小笠原氏は500騎で幡豆の城に立てこもり、一族の江原藤太夫忠盛も手勢の300騎を率いて入城しましたが、1561、62年ごろから家康に帰属するよう本多忠勝からたびたび勧誘があったため、味方になり、一揆勃発後の63年11月20日から土呂・八ツ面・大草・針崎方面の抑えとして寺部城・欠城に立てこもり、64年4月7日付で家康から幡豆本領安堵の起請文(誓約書)が与えられたと伝わります。

 

西尾市西幡豆町の欠城跡

 

ただ、本多忠勝が勧誘のため小笠原氏に送った使者は、松井忠次の家老と忠次が雇った甲賀忍者の頭領でした。また、家康からの起請文は忠次自身が使者になって与えたと伝わります。さらに、忠次の正室が小笠原氏の一族・江原氏だったことも考え合わせると、妻の縁を頼って小笠原氏の家康帰属を説得したものとみられ、東条城と寺部・欠城の間にある鳥羽城を幡豆取出の候補に挙げる研究者もいます。

 

【八ツ面城】荒川義弘VS.水野信元

 

松井忠次が吉良義昭と戦闘を続ける中、八ツ面城(西尾市八ツ面町)にあった一揆方の荒川義弘(義広とも)の動向については、『松平記』に家康方の酒井正親が西尾城にあって「野寺・荒川と取合」と触れられているのみだそうです。吉良氏や荒川氏だけでなく一揆方の城主による戦闘の詳細が史料に描かれていないのは、彼らの基本的戦略が籠城(ろうじょう)戦だったからだとみられています。

 

ちなみに荒川義弘は東条吉良持清の次男で、1527年ごろに八ツ面城主になったと考えられています。桶狭間後は吉良義昭とともに今川方として家康と対立しますが、突如寝返って家康方の酒井正親を八ツ面城に入れ、前述の通り正親による西尾城攻略に貢献しました。義弘は家康の異母妹・市場姫を正室に迎えますが、三河一向一揆で再び家康と争い、64年2月に八ツ面城が落城したと伝わります。

 

西尾市八ツ面町の真成寺にある荒川義弘の墓

 

64年2月の落城については、荒川義弘や本證寺の一揆勢と対峙していた西尾城の酒井正親の兵糧が尽きたため、2月8日に家康率いる軍勢が刈谷の水野信元率いる軍勢の加勢を得て、安城の西野経由で西尾城に赴いて兵糧を搬入。その帰途、家康・信元 軍は八ツ面城を襲撃し、さらに本證寺などから繰り出してきた一揆勢と小川(安城市)で戦い、一揆勢を破って岡崎城に帰ったとの伝承があります。


2月末から家康方と一揆方の和議交渉が始まったとされていますが、『三河故事』によると、水野信元による和議の勧めに同意しなかった家康を、大久保忠俊が懸命に説得したそうです。2月の家康は岡崎方面の一揆勢に対応しており、八ツ面・小川方面の戦闘は水野軍によるものとの見方もあります。信元はこの戦績を踏まえてか、あるいは織田信長の意向をくんでか、2月8日過ぎに家康へ和議勧告をしたとの論考もあります。『松平記』や『三河物語』は「家康が領国内の一揆を自力で解決できなかった印象を与える」とみたためか、水野氏の介入について触れられていないそうです。

 

水野信元の墓

 

【遠州忩劇】家康の遠交近攻策?

 

三河一向一揆があった同時期、隣国の遠江では引間城の飯尾連龍を中心とした今川氏への反乱が起こっていました。「遠州忩劇(そうげき)」と呼ばれる一連の事件は、桶狭間戦以降の今川氏にとって領国崩壊を促進する役割を果たしました。三河一向一揆と遠州忩劇を結び付ける史料はないようですが、偶然に思われる異質な2つの事件の関連性を探った論考が複数あります。

 

浜松城から見た引間城跡(中央の建物付近)

 

それによると、今川氏真が1566年に東漸寺(浜松市中区)へ宛てた書状に、飯尾連龍が64年4月8日に家康と対面したことが記されているそうです。しかも、鷲津(湖西市)の本興寺まで家康の軍勢が乱入したとあるので、少人数での密会ではなく家康による飯尾氏への軍事加勢でした。田原、吉田に今川方諸城がある中で、東三河を抜けて鷲津まで駆け付けた家康の大胆さは、63年に家康が一宮砦(豊川市)で繰り広げた後詰の武勇談に通じると指摘されています。

 

静岡県湖西市の本興寺

 

また、『浜松御在城記』によると、松平と織田の和睦によって飯尾連龍・井伊直親らが両氏に内通したため、1562年4月に今川勢の新野氏から攻められたとあり、『家忠日記増補』だと1562年に今川勢(新野左馬助)による引間城攻撃が記されているそうです。飯尾氏が桶狭間戦後に早くから井伊氏らと共に松平氏に通じていたことは、事実とみて差し支えないとの見方があります。

 

そうした点から、一揆方に立った吉良義昭ら城主格の諸将は今川方との連携を期待したものの、家康による調略を受けた飯尾氏が今川氏への反乱を起こし、今川勢を領国に足止めさせたことで、家康は今川氏を気にすることなく一揆方との戦いに集中できたとの想定が提起されています。いわゆる遠交近攻策の典型的なパターンとみられています。

 

【参考文献】村岡幹生「永禄三河一揆の展開過程~三河一向一揆を見直す~」(2010年)/『吉良の人物史』(幡豆郡吉良町・2008年)/久保田昌希「『遠州忩劇』の一視点」(1999年)/小林輝久彦「永禄7年の春・吉良義昭のたたかい」(1995年)「東条松平氏と松井松平氏」(2013年)