西尾市教育委員会から先日、「西尾市埋蔵文化財発掘調査報告書『旧法応寺墓所』」(A4判・134㌻)が発刊されました。【東条城】 で触れましたが、旧法応寺墓所には西尾市吉良町出身の戦国武将・松井忠次(まついただつぐ、1521~83)が葬られています。報告書では2011年5~7月に行った発掘調査で、忠次の墓の地下から人骨の入った常滑焼のかめが見つかったことなどが紹介されています。

 

 

忠次について簡単に説明しますと、吉良町中央部にある小山田地区の出身で、徳川家康に従って1561年の東条城(吉良町)攻めに参戦し、後に東条城代になりました。三方ヶ原や姉川の戦いなどでの戦功で家康の信任を得て、三枚橋城主(沼津市)になりました。83年に三枚橋城で63歳の 生涯を閉じた後、自ら創建した法応寺の墓所に埋葬されました。忠次の子孫は譜代大名になり、石見国浜田藩主(島根県)や一時岡崎藩主を務め、武蔵国川越藩主(埼玉県)で廃藩置県を迎えました。

 

 

旧法応寺墓所は東条城跡がある丘陵の県道を挟んだ北側の丘陵にあり、今回の発掘調査は2010年8月に土地所有者(個人)から「墓所の整理を検討しており、墓石を移設したい」との申し出が、当時の吉良町教委にあったことが発端だったそうです。11年4月に吉良町を編入した新・西尾市によって、5月から公費で発掘調査が行われました。

 

墓所には忠次の墓、忠次の顕彰碑、東条松平氏の墓、歴代住職の墓があります。市教委では顕彰碑の拓本採取、墓石・石碑の解体と花岳寺(吉良町岡山)への移設、地下の発掘などを行いました。忠次の墓石の下には直径80㌢ほどの広さで石が集まっていて、これを掘り下げたところ、常滑焼の大がめが平らな石材でふたをした状態で出土し、内部には頭骨の一部や大腿骨などの人骨があったそうです。

 

【旧法応寺墓所】墓の地下で遺骨発見

 

このほか、顕彰碑の地下からは火葬の遺構、東条松平氏の墓の地下からは忠次を始祖とする松井松平家の家紋である蔦(つた)の文様を刻んだ鬼瓦2点が出土しました。人骨は名古屋大学博物館(名古屋大学大学院情報文化研究科)の新美倫子准教授に調査を依頼。9月まで基本的な調査が進められました。埋蔵文化財として扱われなかった人骨は土地所有者に引き渡され、それ以外の出土品は市教委が保管しているそうです。

 

 

新美准教授の分析によると、人骨には頭、あご、歯、腕、太もも、すねの各部位があり、保存状態は良くなかったそうです。ただ、いずれの骨も同じ人間のものと考えられ、下あごの臼歯の磨滅状態から年齢は老年、頭の骨にある乳様突起の大きさから性別は男性とみられ、足の骨のたくましさから、「忠次の遺骨としても矛盾はない」と判断されています。


市教委では「江戸時代中期における藩史研究と関連して実施された忠次墓の墓石整備や顕彰碑建立といった事業の実態を確認できた。譜代大名における藩祖祭祀や顕彰の一例として評価できる。江戸時代以来、『お殿様のお墓』として長く手入れがされてきた旧法応寺墓所は、墓石が移設され景観は大きく変化した。幸いにも関係者の尽力によって、墓石と顕彰碑は花岳寺境内に移設保存されている。今後も地域の歴史を物語る石造物として永く守り伝えたいものだ」と総括しています。

 

花岳寺境内に移設された松井忠次の墓・顕彰碑、東条松平氏の墓

 

――とは言うものの、水を差すようですが、【東条城】 でも触れましたけど、郷土史家の先生方から見ると、移設先が花岳寺というのには大きな疑問があります。花岳寺はそもそも室町時代の1347年の開山以降、吉良氏の保護を受けて栄えてきたと言います。現在は年1回、東条吉良氏の毎歳法要が営まれています。その境内で、家康に従って(寝返って?)吉良氏を滅ぼした忠次が眠るわけですから、とても安眠できるとは思われません。吉良町小山田には忠次の先祖が眠る正龍寺があるのに、わざわざ吉良氏ゆかりの寺で眠らせるのが「幸い」なのかどうか、熟考の余地があると思われます。

 

【前半生】主君は吉良氏から松平氏へ?

 

松井忠次とはどんな人物だったのでしょうか。報告書には、このブログでおなじみの郷土史家小林輝久彦さんによる論考「東条松平氏と松井松平氏」が収録されています。東条松平氏の出自や初代~3代の事績、松井松平氏の出自や忠次の事績などについて、通説と照らし合わせながら考察されています。この中から忠次の事績に関連した部分を拾ってみたいと思います。

 

 

誕生は1583年に63歳で死去したことから逆算して1521年と考えられています。忠次が初めて現れる史料は、1551年12月11日付の今川義元による知行宛行(ちぎょうあてがい)状。今川氏の直臣だった東条松平氏の2代甚太郎忠茂の兄・甚二郎が尾張織田氏に同調して駿河今川氏に反逆した際、忠茂は義元に兄の謀反を報告しましたが、忠茂に同意した忠次に対し、義元は「同心」として忠茂に従うよう命じました。


1556年2月、今川氏に背いた奥平氏を日近城(岡崎市桜形町)に攻めた忠茂が戦死すると、忠次は忠茂の甥・家忠を支持し、9月には義元から家忠の名代として諸事異見を任されます。3月に尾張織田氏の当主信長が西三河の荒河(西尾市八ツ面町)に侵攻した際、これを野寺原(安城市野寺町)に迎撃して敵の首級を挙げたとして、9月4日付で義元からの感状を受けています。

 

 

今川氏と松平宗家(家康)に両属する関係を保ってきた松平家忠と後見の松井忠次ですが、1561年4月に家康が今川氏への逆心を起こすと、家忠と忠次は今川氏を離れて松平宗家に付きました。家康からは津平砦(西尾市吉良町津平)の築城が賞され、忠次は6月27日付で津平郷が宛がわれました。この時、2人が対峙していたのは東条城の吉良義昭ですが、小林さんは家康に付く前の忠次について「東条吉良氏の家臣だったのではないか」と見ています。

 

【後半生】最前線で活躍、家康の一門に

 

義昭は遅くとも1561年末には降伏したらしく、家康は62年4月13日付で忠次に東条城代を命じ、家忠後見の地位を保証しています。吉良氏の旧臣層も加わり、ここに「東条松平氏」が発祥します。63年に忠次は上ノ郷城(蒲郡市)攻めに加わり、2月4日には落城させています。この城攻めには忍者が使われたことで有名です。忠次は津平砦から東条城に移り、伊賀・甲賀衆で腕に覚えのある者どもを呼び寄せますが、中でも物頭である伴中務兄弟に対しては朝夕の食膳を共にし、御前の食物を分け与えるほど丁重にもてなした上で、彼らと談じ合わせて雨の夜、上ノ郷城に忍者を入れて奪い取ったということです。

 

 

東条城代だったはずの忠次でしたが、三河一向一揆の勃発に伴って東条城は義昭に奪還されたらしく、63年10月には家忠と忠次が幡豆砦(所在地不明)にこもっています。2人は家康の期待に応え、義昭をけん制して岡崎を攻撃させず、64年2月の一揆終結で義昭を降伏させたと考えられています。以後、忠次は家康の家臣として、東三河、遠江、駿河へと転戦します。家康と同盟した信長の要請で近江にも出陣しました。

 

1575年8月に甲斐武田氏が駿河と遠江の国境にあった諏訪原城(静岡県牧之原市)を放棄すると、家康は直ちにこれを接収して牧野城に改名しました。このとき、家忠とともに在番を命じられた忠次は家康から松平姓を下され、周防守を名乗ったそうです。同時期に「康」の一字も下されて実名を「康親(やすちか)」に改めたとされているそうです。

 

 

1581年に後見していた家忠が亡くなると、家康の四男忠吉が東条松平氏を継ぎましたが、幼少だったため引き続いて忠次が後見を任されます。家康が駿河を領有すると、忠次は駿河と伊豆の国境にあった沼津の三枚橋城主になります。83年に病を得て、6月17日に63歳で死去しました。1590年の家康の関東移封以前に、家臣で松平姓を与えられたのは、忠次のほかに2人しかいないそうです。忠次に寄せる家康の信頼の深さがうかがえます。

 

【甚太郎衆】尾張に残った吉良氏旧臣

 

家忠が亡くなった際、男子がなかったため、家康は忠次に東条松平家を継がせようとしましたが、忠次は固辞したそうです。家康の四男で秀忠の同腹の弟になる2歳の忠吉を跡継ぎにもらい受けたいと申し出て許されます。忠吉は浜松城に残り、東条松平家臣団は忠次が率いました。歴戦の家臣団は後に東条松平氏の通称をとって「甚太郎衆」と呼ばれます。三枚橋城で後北条氏と対峙した時も、甚太郎衆の主力家臣が臨みました。

 

忠次が同城で病死すると、忠次の嫡子である康重が引き続いて忠吉の後見になり、1590年の関東移封に伴って忠吉に武蔵国忍城(埼玉県行田市)を中心とした忍領10万石が与えられると、甚太郎衆も忍に移りました。康重は武蔵国西城(埼玉県加須市)2万石を与えられたことで後見の立場から去りますが、歴戦の甚太郎衆は忠吉とともに関ヶ原の戦いに臨みます。

 

この戦功で忠吉は尾張国清洲城(清須市)に転封され、1606年に知多郡を合わせた52万石を拝領しますが、07年に病死し、跡継ぎの男子がなかったため、領地が召し上げられて東条松平氏は断絶します。清洲には家康の九男義直が転封され、甚太郎衆は一部が改易されたものの、義直の家臣団に編入されたことで、「甚太郎衆」の名は尾張藩士の中に残りました。

 

 

『吉良の人物史』によると、尾張藩士の中に残った甚太郎衆の多くは旧吉良氏の家臣で、東条城最後の城主だった松平甚太郎の名を後世に残したということです。東条松平家の家臣団で旧吉良氏の家臣だった者として、友国の尾崎氏、菱池の石川氏、東条の長屋・長坂氏、荻原の粕谷氏、羽塚の近藤氏、瀬戸の朝岡氏、善明の近藤氏、室の左右田氏などが伝わっているそうです。