宮本浩次(みやもと ひろじ)「冬の花」の紹介

 

 

いずれ花と散る わたしの生命
帰らぬ時 指おり数えても
涙と笑い 過去と未来
引き裂かれしわたしは 冬の花

あなたは太陽 わたしは月
光と闇が交じり合わぬように
涙にけむる ふたりの未来
美しすぎる過去は蜃気楼

旅みたいだね
生きるってどんな時でも
木枯らしの中 ぬくもり求め 彷徨(さまよ)う

泣かないで わたしの恋心
涙は“お前”にはにあわない
ゆけ ただゆけ いっそわたしがゆくよ
ああ 心が笑いたがっている

なんか悲しいね 生きてるって
重ねし約束 あなたとふたり
時のまにまに たゆたいながら
涙を隠した しあわせ芝居

さらば思い出たちよ
ひとり歩く摩天楼
わたしという名の物語は 最終章

悲しくって泣いてるわけじゃあない
生きてるから涙が出るの
こごえる季節に鮮やかに咲くよ
ああ わたしが 負けるわけがない

泣かないで わたしの恋心
涙は“お前”にはにあわない
ゆけ ただゆけ いっそわたしがゆくよ
ああ 心が笑いたがっている

ひと知れず されど誇らかに咲け
ああ わたしは 冬の花

胸には涙 顔には笑顔で
今日もわたしは出かける

 

 ***********************************************

 

 まず、2019年というごく最近に、この古めかしい曲調と詞で作っているのがとても嬉しい。そして、尋常じゃ無く、特にこの今に!、求められる歌であったのだ。

この曲について、何かのコメントで読んだひとつに、
「最初オッサンが大声で叫んでるだけと鼻で笑い、"もうそんな時代じゃねーんだよ"、と思っていたけど、歌の終わり頃にはぐしゃぐしゃに号泣してた」と言うのがあった。宮本浩次(みやもとひろじ)を初めて知った若い人らしい。

 古参のファンも若い人たちも同じくこの人生を生きる同志であり、皆それぞれに叫びたくなるほどの悲哀を背負って今の日々を生きている。
 だから宮本浩次がこうして、自分の代わりに、大声で、泣き叫ぶような詞を歌う、その声と姿に心を射貫かれる。不意に凄まじい情熱を見、魂を揺さぶられて気づけば涙が溢れている。

 どこか懐かしいようなリリカルなメロディーに、力強く悲壮な詩、単なる失恋ソングに終わらず生きることそのものの哀しさを、私たちの代わりにこんなにも大きな熱量で歌い上げてくれる。平成・令和の若者だろうと昭和生まれだろうと関係なく泣かせるに決まってる。

 宮本浩次という詩人の魂は、年輪を経てひとつの到達点、冬の花を咲かせ、惜しげも無く散華させた。

 散り散りになって風に舞う花びらを、チラと振り向き一瞥しただけで向き直り、彼はふたたび独り歩いてゆくのだろう。
 

 

 *****************************************

 余談
 

  冬の花とは冬薔薇(ふゆそうび)のこと。

『こごえる季節に鮮やかに咲くよ』
冬という、花を咲かせるには逆境の中で、一つ一つ咲き始めるのだが
中には冬の寒さに耐えきれず、咲くことかなわずそのまま枯れてしまうものも多い。

『人知れず されど誇らかに咲け』
冬薔薇の花言葉は、「輝かしく」。
こんな世界で、こんな人間社会で、この人生を生きていくなんて、
私たちはみんな、世界の片隅の「冬の花」なのだ。

 

 

 

 

 

さよならだけが人生だ、と

思っていた時期もあった。

 

 

とうの昔に普通の人生を諦め、ひとに理解されることなど期待しないで今まで来た。

これまで大勢の知人、友人の彼らの時間を無駄にしないよう、わざと遠ざけて

来たのだが、いつだってずっと独りで戦っているような気分だった。これはもう

自業自得なのだけれど。

 

大好きだった人たちが一人また一人と、去っていく。

さよならも告げられずに。

 

 

 

 何が哀しいのだろう? 気づくと顔を覆っている。

何ヶ月も、ずっと鬱かその入り口辺りにいる。

 

自分自身に対するガッカリ感だけでなく、人間というモノ一般に対する

絶望もあるからタチが悪い。

 

ほんとうに、追い詰められている。

なんども、夢の中で叫んで飛び起きる。

 

このブログ、全部消したい。

そう、言っているうちは大丈夫か・・・?

 

 

 

 

 

 

 

古き神々の一柱が言った。

 

 元々人類など、自然界の強者に怯えびくびくと身を隠し世界の理(ことわり)など何も知らなかったくせに、

ちょっと入れ知恵してやったら分かったつもりになって、もっと得をしようと貪欲に欲しがり続け、

今じゃこの星の主(あるじ)気取りだ。

 元々与えられた知恵であることも知らずに、人類の英知だなどと傲慢な罪深い勘違いをしている。

罪には罰がもたらされるだろう。何となく延期されているのは、神々の慈悲などではなく単なる気まぐれ。

もう、あまり人間に期待もしなくなったということだ。

 

 

 

 

 

(以下、俺の感想)

 

1945年、敗戦に打ちのめされズタボロになりながらも復興に希望を抱いて、

焼け野原から歩き始めた日本人に、ゴジラという自然神の災厄が襲った。

 

武装解除されたばかりの日本政府はもとより、米ソ緊張のさなか進駐軍にも頼れず、

ただ数少ない民間の有志が集まってゴジラ対抗作戦の会議が始まるが、立案者本人が

「この作戦が成功するのは奇跡でも起きなきゃ無理なんじゃないか・・・」と内心

危惧するほど困難で、生きて帰れない可能性の方が高い。そして皆それを感じている。

 

「誰かが貧乏くじを引かなきゃならんのでしょう?(それなら自分が・・)」

と、役名も無い人が静かな笑顔で言った。

 

「絶対に死ぬわけじゃ無いでしょ?それなら戦時中よりはマシだ」とまた誰かが

笑いながら言い、場がどっとわいた。

 

男というものはこれだけで良いのだ。こんな感性だけ有れば十分死地にゆける。

 

そんな我が国の先人たち(父や祖父の世代)は、名も無き英雄たちだ。

戦争で生き残ってしまって、多くの仲間たちに往き遅れてしまったという

重い十字架を負い、心のどこかで死に場所を求めていたのもあるだろうが、

ただ、人としての矜持を忘れず、身命を賭して自分の精一杯を出し切る、

かっこいい日本人の姿がスクリーンにあった。

その姿は技術者だったり特攻の生き残りだったり学者だったり漁師だったりするが、

これこそが真の侍だ。

 

感動は、そこに理想を見いだすから生まれる。こうありたい、こうあれたら、と。

すぐれた作品がもたらす感動は、自分も出来るかも、いや、やるんだ、という希望を

抱かせてくれる。

 

今まで何もしてこなかった自分を嘆いて、申し訳ない想いになるだけではだめだ。

今からでも遅くは無い。

実に、何かを成し遂げるとしても、質や量の話では無い。

大事なのは、自分がどれだけ納得できるか、ってこと・・。

 

 

それにしても最後、崩壊し海の底へ沈みゆくゴジラをみて、みんな自然に敬礼をして

ゆくシーンは日本人(侍)ならではだな、と思った。

だが、その感性(美学)の本質を外国人や現代日本の男たちが持っているようには、

哀しいかなどうしても思えないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ここに一組の親子がいて、
もしも神様が、その親子にとってかけがえない記憶をどこかにずっと、残してくれていたら、
この世界の悲しみはずいぶん消滅するんじゃないかな、と思う。

 

 つまり、小さなわが子へ向ける父と母の想いのすべてを、神さまがたいせつに記録(メモリー)に残してくれていて、いつかその子が大きくなって両親を憎むようになったり、または、親が子に対し自分たちの教育が失敗したなどと諦めかけたときに、神さまがその親子に、かつて記録として残された、わが子に向けた親の想いのすべてを再生してくれたなら…


 その映像には、まだ小さいわが子を愛おしそうにみつめる両親のしあわせそうな表情や、強い愛、この子と生きていこうという親たちの覚悟が映っているだろう。
 それを子どもは初めて見て、親の想いと愛を知るだろうし、また親たちは涙を流しながら、諦めかけている自分を恥じることだろう。

 

 そうしたらもう親子の心がバラバラになるような事は、ほぼ無くなるんじゃないかと思うのだ。


 子どもの頃、両親から日常的に虐待を受け愛された記憶(メモリー)は無く、毒親の所業で人生をなんども狂わされてきた所為(せい)で俺は、特に母のことを絶対に赦せないほどなのだけれど、もしも神さまがそんなメモリーを見せてくれたら、俺の、親を憎み続けるという悲しみも、そして子に憎まれながら年老いていくという母の哀しみも、きっとずいぶん消滅して、心からありがとうと言える日が来てくれたら・・・、って無いわ、やっぱ。もうとっくに俺は諦めてしまってる。

 

 

 

   

   

 

 

 

※Flavor … 味覚と嗅覚で感知する風味のこと。
宇多田ヒカル本人は、「人生の風味」と語ったそうだ。
人生の味わいとか匂いって、きっと甘いだけのものじゃないだろうし、
予想通りの展開などでは得られないものなのだろう。
 それは、日々のいとなみで不意に感じる人生のほろ苦さや、何かの拍子で急によみがえる
想い出とその匂い、のようなものかも知れない。

この季節なら街を歩いていると何処からかふわっと金木犀の芳香がただよって来て、
しあわせな気持ちになるだけの人もいるし、また人によっては、その匂いに幾つもの出来事が
絡んでいたりして、それこそFlavor of Lifeをしみじみ感じ、とても切なくなる。

ところで、Yahoo!知恵袋でこの曲の歌詞についてこんな質問があった。
「ありがとう、と君に言われると なんだかせつない」とありますが、どんな状況なら感謝されているのにせつなくなるのですか?」
 ネタではなく率直な疑問なのだろうけれど、”人から感謝されてるのに切なくなってる”図、を想像して、思わず笑ってしまった。
 この質問に対する回答として知恵袋では出てなかったが、この曲を初めて聴いたとき共感したニュアンスは、まちがいなくこの詩のエッセンスだと思う。つまり…、

 

 大好きだけど「別れ」がかぶってみえる人から言われる「ありがとう」は、さよならへのカウントダウンのような気がしてしまって、切なくなるよね、というものだ。

 この歌詞みたいに友だち以上彼氏未満というのはとても不安定で、いつも別れの予感を抱いているものだ。
 でも、まぁたしかに切ないかもだけど、友だちでも恋人でも無い不安定地点の相手など、代りは幾らでもいる。
 やばいのは代りがいない相手だ。

 ”大好きだけど「別れ」がかぶってみえる人”で俺が真っ先に想い出したのは亡き祖母のことだった。
 晩年、あのやさしい笑顔で俺に何度、「ありがとうね」、って云ってくれたろう…。
その度なぜか哀しくなっていた俺は、心のどこかに別れの予感をいだいていたのだと思う。
 あれからずい分経ったけれど、かなしみは、俺の語彙力をもってしても現わせない。

 ただ、ヒッキーの歌詞について考えていただけなのに、こんなことに気づくだなんて、とんだ秋の
長夜だ。ほんとうに参る…。















 

 むかし、ボイジャー1号という惑星探査機が人類はひとりぼっちじゃないことを確かめに飛び立って、今彼は太陽系さえ離れ遠い外宇宙の闇の中をたった独りで飛んでいるんだけど、そのボイジャー1号が土星の外側、地球から60億キロメートル離れた場所から映したのが下の写真。

 

 

この「淡く青い点」と名付けられた写真は、だいたい土星からみた地球の姿で、拡散する太陽光線の中にポツンと在る。

 当時、この写真をボイジャーに撮らせるようNASAに提案したカール・セーガン博士が感動的な言葉を残していて、要約するとこんな感じだ。

 

 この小さな淡い点に、わたしたちのすべてが在る。人類だけでなくすべての生命、すべての歴史、すべての想い、愛する人も、憎い敵も、すべての希望も願いも、哀しみも…。

 

 そう想ってもう一度、この小さな淡い青い点を見れば、わたしたちのしてきたこと、今していることの本当のところが分ると思う。

 そしてこれからすべき事への責任も。

 

 ボイジャー1号は今も、文明の信号を発しながら真っ暗な外宇宙をひとりぼっちで飛んでいる。帰還できない旅だ。

その後つづくボイジャー2号には、人類はこんな、です、って絵と座標が描かれたレコードが積まれている。

やっとお隣の恒星系に着くのは4万年後だ。

 彼らの任務は、わたしたちがひとりぼっちじゃないことを確かめること。そのために何処までも飛んでいく。

 「誰かいませんか?わたしたちは、ここにいます!」、と…。

 

 

 

 

意訳(すべての世界にあまねく如来(神)は云っている、人間の罪業の深さと救われない本性というものを)

 

 実際、そう言う事は様々な宗教家や思想家たちが散々唱えて来ているところだし、

考えるほど、想うほどに、どの時代の賢者たちもほどなく同じ結論に達することだろう。

 

 旧約聖書の「ソドムとゴモラ」の話じゃないが、ある日突然地球に巨大隕石でも降らせれば片はつくのだ(現代世界はソドム、ゴモラよりずっと酷い)。

 かつて何億年もにわたって存在した恐竜たちを滅ぼしたように、数度の大絶滅と、そして無数の変異を繰り返し、お気に召す程度の種をふたたび作り出せば好い。

 だが、しない…。

それはまだ、大天使や菩薩たちが導く余地があるからなのだろう。

 

 彼らは人の姿を取り、人の魂を持っている。ゆえに人への愛も持ちうる(純粋な霊体には人への愛など無い)。彼らが人に介入してまだ数千年程度か、そんな瞬きのような時間くらいは神は猶予を与えているように思う。

 

 ただ、善き人々には余りに遠い道のりである。

 

 

 

 

 人よ、汝自身を知れ。

 

 

 

 

 労働とは、ほとんどの人々にとって、社会との連帯と対価を得るために、自分の命の時間を売っているものであるが、

その一方で、その人が自ら選び取り、自分の存在理由として使命として、その本質を極めんとしているものは、労働ではなく、責務、と云う。