こんにちは。

今回の主題は、人間の「内面」があらゆる点で選択と行動を左右することについてです。こちらの確かな経験を提示しながらお伝えします。

 

|このような方々に向けて|

  • 自分自身の信念が無い
  • 自分の選択に自信が無い
  • 政治等での不祥事が多く、国民の生活がどんどん苦しくなっている根本の理由を知り、改善に向けて働きかけたい
  • 生き方を変えたい

 

|当記事を読む利点|

  • 善い行いや正しい生き方をする方法がよく分かる
  • 聖書への誤解(聖書は単なる一宗教の教典だ等)が完全に解ける
  • 世俗的価値観からは決して得られない、世の中に対する広い視点や価値観を得られる

 

 

当記事を書いた背景 

 

世の中には、勉学を重ね、それなりの能力を持つはずなのに、世の権威に盲従し、全く役に立たない人々が少なくありません。反対に、もの凄い力や社会的地位を持ってるわけではなくても、自ら適切な情報を掴み、物事の本質を見極められる人々が存在します。わしはこのような事実がずっと気になっており、同じように気になってる人も居るのではないでしょうか。有名大学の法学部を卒業していながら、まるで全く法を勉強したことないかのように、憲法(国の最高法規)や法律に平気で違反する無法者の政治家や官僚、外国人犯罪者らを意図的に不起訴にする等の不当な処分をする検察、憲法判断で不都合なものは意図的に逃げる裁判所といった実態があります。外国人犯罪者を不当に不起訴処分にするなら、不良外国人にとって「日本で犯罪しても、これといったお咎め無しなのね~」と調子に乗らせ、日本の治安悪化を招きます。しかし、日本人の安全よりも、保身に走って日本を意図的に治安の悪い社会にしたい支配層や日本政府の意向に従っているんでしょう。また、裁判所も同様です。こちら(NHK)から、仙台高裁では、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法が憲法第九条に反してるとは言えないと判決されました。違憲かの判断もせずに逃げたのも含め、裁判官は行政に不都合な判決を出して自分の地位や立場が脅かされてるのを恐れています。憲法の三大原則ほか各規程に反する悪法や条約を違憲と判断せず、日本がどんどん外国人に侵略されたり戦争になったりでもしたら、これまでのように仕事どころではなくなるというのに、気付かないのが逆に凄い。

頭が切れるから、能力が高いから本当の意味で賢く優秀であるとは限らない、一方で人としての礼儀正しさがあるかどうかは各人の能力(凄腕だとか)に必ずしも関係するわけでないと、人との関わりの中で実感しています。いくら知恵があるとしても、悪人が悪知恵を使って悪事を行う、すなわち人として間違った選択をするのは、人間自身の内面が邪悪だからです。「真の聖書福音と預言」(アメブロ)の管理人であるミカエル氏が、現代日本の重大な問題点を挙げ、その根本原因は正義と慈愛の欠如、そして神への不信仰だと、「日本人の問題点 五」で挙げています。本記事では、この日本人の問題点に関する連載記事の主旨に賛同し、一人でも多くの人に危機感を持って行動を変えてもらうべく広めたいと考えました。良心ある読者の皆様には、内面こそが我々の選択を、そして今後の運命を最も大きく左右するのだとご理解いただきたいと強く願っています。どんな状況の中でも賢明に生きたいと考える方は、ぜひ参考にしてください。

 

 

悪い姿勢や態度による選択の間違いの例(貴方も当てはまりませんか) 

 

不適切な行動は、その人の悪い姿勢や態度によると最初にお伝えしました。決して、堂々と悪事を行う多くの公務員、報道機関、金融資本家や大企業やその株主らに限ったことではなく、我々一般人も同様です。悪い姿勢や態度を改めなければ、世の現実や真相を心から受け入れようとしても、必ずどこかで躓く(情報の取捨選択で間違う)ことになります。そして、内面が悪い故に、聖書に関しても無知でありながら、自ら聖書を真剣に検証する前から同じく無知な人間の勝手な偏見や妄想を鵜呑みにしてしまいます。これは後程、具体例を提示して明らかにします。「私は主体的に情報を取りに行っており、判断も間違ってないと思う」と考えてる人であれ、他人事に捉えず、盲点になってる部分が無いか振り返る材料にして欲しいです。

 

一、最近の話題から

最近は、ワクチンの主作用等による被害を隠す為なのか、紅麹の成分を使用した小林製薬栄養補助食品による「健康被害」が騒がれています。紅麹自体、昔から食べられてる発酵食品であって決して毒ではないのに。たとえ、今後、従来の様々な発酵食品が言われのないことで悪く言われても、乗せられるべきではありません。また、大リーグの大谷翔平選手と通訳者の水原一平氏の件と併せて、閣議決定(最近だと、地方自治法、NTT法、放送法、プロバイダー責任制限法等の改悪)や売国法案および法改悪の可決といったやましいことから国民の目を逸らす「スピン報道」に違いありません。情報を取る姿勢が受け身だと、大手報道機関の報道内容をそのまま受け取るだけで、真相には到底辿り着けません。

近頃、政権与党が売国奴ぶりを全然隠さなくなっており、さすがに彼らへ不信感が募って「このままではヤバい」と思ってる人は少し増えたように感じます。野党が全然当てにならないのは事実だけれど、だからって「自民党は野党各党よりはまだマシ」というのは甚だしい勘違いです。かつての公社であった国鉄、電電公社、専売公社、日本郵政公社を民営化して一部の株主や外資ばかりが潤う仕組みを構築したり、意図的に非正規労働者を増やしたりしてますます日本の労働環境を悪化させたり、江戸時代以上にどんどん税負担を重くしたり、自分達は無法者でありながら偉そうに憲法改正(実際は現憲法の三大原則を全て否定し、戦前回帰やナチスを真似た緊急事態条項を付ける等、まさに「壊憲」)を叫んだり、自民党が散々日本を破壊してきたのは紛れもない事実で、売国を全く阻止しない各野党もグルです。最近でも、海外では失敗例しか無い水道の民営化を進めたり、通称「NTT法」を改悪したり、売国はとどまりません…。未だ政治に無関心で自分の仕事や楽しみばかり追求するのは、誰かが何とかしてくれるという酷い怠惰さや自己中心的態度の結果だと考えられます。日本が完全に外国人に乗っ取られたりすれば、これまでの楽しい生活どころではなくなります。実に理解不能なのが、「政治と宗教と野球の話はするな」という変な風潮です。おもな理由としては、『これらのトピックを避けるべきとされるのは、それらが個人の信念や価値基準に深く関係するものであるため、万が一、話し相手の好みが自分のそれと異なった場合、感情的摩擦をもたらす可能性があると考えられるから(Carey:1995、Schudson:1997)だろう(引用元:政治の話はタブーなのか―インターネットユーザーに対する実証分析から―| 中央調査報 | 中央調査社 (crs.or.jp))』のようです。どの球団を応援するかは、確かに完全に個人の好みによりますが、政治がそもそもそうあるべきではないですよね。政治に関してありのままの事実を共有したり、情報交換したり、客観的に法に照らし合わせて誰の何が問題かを意見し合ったりする場合、人間各自の好みに左右される余地は無く、情報や意見の交換において基準が個々でバラバラじゃいけないと思います。多くの国民の人任せで怠惰といった悪い内面が、憲法第十五条二項の規定と異なり、政治家を「先生」等と言って芸能人みたいにチヤホヤする不気味な風潮に繋がり、政治をも個人の好き嫌いや価値観に基づくものという間違った思い込みに繋がってるに違いありません。また、引用元の文章にある、国の政治が話題として避けられている理由として「楽しくないから」「話す必要がないから」「縁遠い話しだから」が上位に来てるのも気になりました。すなわち政治に対して距離感を持っている人が多いという残念な現実ですね。多くの国民が自分の快楽ばかり優先する自己中で、それが政治への無関心や「自分が政治に関心持ったところでどうせ変わりやしない」という意味不明な諦め(間違った選択)に繋がり、結果日本が自浄作用の無い程に破壊されました。諦める前に、多くの国民が「自分たちが社会を絶対に変えてやろう」と思って政治家、官僚、司法、警察、大企業、報道機関等に対して立ち上がろうとしないのは異常事態です。その人数の多さのせいで感覚が麻痺してるだけで。住みやすい社会を望むなら、「政治や法や経済とか、そんな小難しいこと面倒臭い…」という変な勘違いも捨ててください。

隣人や自分らの生活に直結してるのだと胸に刻めば、少々難しい事柄の理解も全く苦ではありません。大して賢い頭をしてるわけではないわし自身がそうだからです。ただ、政治に関心があっても、日本の支配構造や与野党グルの実態を無視し、特定の政党に期待して応援して、選挙で何とかなると思うのも有害無益と言わざるを得ません。無関心な人々同様に他力本願精神と怠惰さに基づいています。以上の内容だけでも、社会的な悪の要素は、全て共通して人々の悪しき品性が根本原因になってると気付けるはずです。

 

二、多くの人に盲点である事例

まず、球体説、地動説について。「日本人の問題点 一(真の聖書福音と預言)」で紹介されてる、ザウルス氏(「ザウルスの法則」管理者)の球体説擁護とその幼稚すぎる言い分が、悪い意味で印象的でした。世の悪に関する情報を発信し、コロナ犯罪関連では的確な情報周知や真っ当な発言をしながら、この地が平面であると頑なに認めないのは残念です。この地が平面であることを述べる人に対して、必ず「非科学的」「時代に取り残されてる」等と野次を飛ばず者らが湧いて出てますけど、もれなく彼らは攻撃的で、自身が性悪であると自己紹介しています。しょうもない野次を飛ばすくらいなら、黙っとけばいいのに。ザウルス氏も「フラットアース説はカルト」と根拠も無い発言をしてますが、球体説こそ悪の元締めであるカトリックやイエズス会関係者がでっち上げた「宗教の教義」なの疑いようがありません。以下、過去にも使用しましたが、重要な事実なので、地動説や球体説がでっち上げられた背景をまとめた画像を再掲します。

(「地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝(真の聖書福音と預言)」「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん(真の聖書福音と預言)」を参照して作成)

 

政府や報道機関や学校教育といった世の権威を疑い、主体的に情報を取りに行く姿勢は適切と言えますが、「世の実態に気付いた自分は偉い」と自惚れて高慢な人が少なくない印象です。生活を守りたい、多くの人に正しい情報を共有したい等と純粋に思う気持ちが動機ならまだしも、単に自分の知識を鼻にかけるのは間違いであり、それが結局自己愛に繋がって「自分の信じたいことを都合よく信じる」姿勢に繋がると考えられます。世の陰謀を理解しながら、この地が平面である事実を嘲る人が多い原因は、まさに今申し上げてる内面の悪さが原因と言えるでしょう。

 

LGBT(性的倒錯)や婚外性交も、それ自体が悪とは世間的にあまり認識されていません。特に近年、意図的に支配層側が推進する同性婚について、裁判所は、憲法第二十四条の前提を無視するくせに「法の下の平等」を曲解して同性婚を認めないのが憲法違反だと、とんでもない判決を下しました(事例(NHK))。多くの人が「自分に迷惑を掛けなければ、個人が勝手にすればいいじゃない」と考えてると思われます。確かに、人に迷惑をかけない個人の趣味であれば、他人が口出しするなと言われてもおかしくはありません。ですが、同性愛はじめ性的倒錯が「個人の趣味嗜好」で片付けられるべきものではないです。一般的な男女の夫婦に比べ、同性同士の子育てに劣る点は無いと示す言及が見られますが、同性婚が子供の発達に与える影響は無視できません。

  • ゲイの父親やレズビアンの母親に育てられた人は結婚を維持している実父母に育てられた人と比べて、「学業成績」「マリファナの使用頻度」「逮捕された回数」「親や大人に性的接触を受けたことがある」「不倫の経験がある」などで、問題を抱えている
  • 小児期のすべてを結婚している父母とともに過ごし、さらに現在も親が結婚を維持している場合にこそ、子供が成人して成功する可能性がもっとも高い
  • 同性カップル家庭の子供は異性カップル家庭の子供に比べてADHD、学習障害などの割合が高かった』はおかしいことを堂々とおかしいと非難せずに放置する姿勢がよろしいとは言えない 悪影響を調べるべきだ 無関心が社会悪に繋がると考える

引用元:同性婚が子供の発達に与える影響 ―アメリカの研究に見る子供の発達と結婚、家庭― | 一般社団法人平和政策研究所 (ippjapan.org)(一部抜粋)

子供の健全な発達への悪影響もありますし、無責任にも「別に個人の勝手じゃない」で片付けず、支配層が意図的に推進するものに関しては十分に調査し、悪いものは悪いと主張する必要があります。正当な根拠に基づくなら、差別にはなり得ません。こちらも悪意や差別的意図は一切ございません、神の律法を守る者が一切差別的なことをしないことは、レビ記十九章十四節および三十四節の、目や耳に障害のある人々への配慮の規定からも理解できると思います。

球体説以降に触れてる事柄については、全て反聖書的、反律法的なものです。全部は列挙しきれないですが、反聖書的な事柄は我々人類にもれなく有害でありながら、意図的に無理矢理容認させられてる現実があります。律法において、神が無意味に御自身の都合で人間に禁忌だと押し付けてるのではなく、律法違反(罪)の事柄がいかさまばかりだったり、人間にとって明らかに有害であったりするのが現実です。悪魔と悪魔崇拝者である支配層は、意図的に社会に混乱を来たすため、悪魔にとって憎い人間を一人でも多く地獄行きへの道連れとするため、人々を聖書の真理から遠ざけ、逆に反聖書的で邪悪な秩序や施策を進めています。そして、悪魔崇拝者どもと根本的には似た邪悪な品性を持って神の律法を無視する大多数の人間が、邪悪な秩序や施策に平気で加担し、主イエス・キリストが予告したとおり神の怒りとこの世の滅びを近づけています。

結論として、全てにおいて、人間自身の悪い内面こそが人間の目を覆うように正しい判断から遠ざけ、適切な選択や行動を妨げているのです。

 

 

外見ばかり取り繕うのは内面が汚いことの表れ 

 

外見の印象を良くすること自体が悪いとまで申し上げるわけではないですが、内面を蔑ろにしながら外見ばかり取り繕う人が世界中で多いです。外見を良くすることで、第一印象は良くなるかもしれませんが、肝心の内面が悪ければそのうち他人から嫌われたりするでしょう。最初の見かけの印象は良かったけど、だんだんとボロが出て残念に思わせる人に出会った経験があるのではないでしょうか。結局、外見だけ取り繕ったところで全く意味がありませんし、神にも他人にも評価されることはありません。

 

日本人は特に明治以降に西洋かぶれして、更に戦後には自虐史観が植え付けられ、美の基準も白人となっており、外見について悩む必要の無い点まで勝手に思い煩う様(白人に比べて目が小さい、まつ毛が目立たない、薄い顔だ等)は、客観的に見れば滑稽なものです。芸能人に憧れ、髪を染めたり、ツーブロックのような変な刈り上げ(神の律法に反する)をしたり、化粧したり、肌の露出が多い服装をしたり(性犯罪を助長させる危険性が高い)、老いに逆らって過剰な若作りをしたりして無駄な時間や労力を使っています。近年ではそれに留まらず、SNSで自ら発信して、悪魔や悪魔崇拝者みたく自分の強すぎる承認欲求や自己顕示欲を見たそうとしてます。個人の自由と言ってしまえばそれまでですが、これらの問題点を一人一人が認識して改めなければ要らん煩いに支配され、神にも評価されず、自分たちが不幸になるだけでしょう。学校教育の欺瞞、自虐史観に気付いた人であっても、西洋かぶれから脱却できてるわけではなく、そもそも西洋かぶれの悪さに気付こうともしないのが残念だと思わざるを得ません。外見至上主義のようになって、ますます「外見を良くしなくちゃいけない」という概念に強く駆られ、外見が良くない人を悪く言う社会となり、殺伐とし、自分たちで自らの首を絞めてるようなものです…。西洋かぶれせず、和装が当たり前だった時代は、今程外見にばかり囚われる社会ではなかったと思います。「和服は高い、着付けや日常生活が大変そう」というのは勝手な思い込みです。これは、自分が実際に房付き(聖書の民数記の規定どおり)の和服で日常的に生活してるからこそ確信できたことです。男女問わず、習い事でするような堅苦しい着付けを普段からする必要は全くありません。購入の際も絹といった高価で手入れしにくいものを買う必要は無く、綿や麻の長着であれば、洗濯ネットに入れて洗濯機のおしゃれ着洗いにすれば洗濯機で洗っても型崩れはしませんし、衣服のしわも干す時に伸ばしたりすれば気にならなくなります。多くの人が必死に外見ばかり取り繕うのも、根本的に内面が悪すぎて、自身の内面が悪いことを潜在的には感じている故だと考えています。

 

一世紀当時、ファリサイ派や律法学者らといった者たちが、格好や外面ばかり取り繕って、他者には神に敬虔であると見せかけて悦に浸ってました。しかし、そんな内面は非常に汚い人が多く、自己中心的、尊大、主イエスの言葉尻を捕えようとする、社会的弱者を全く憐れまず差別するといった酷い行為にも現れてました。主イエスからは「偽善者」「白い墓」等と厳しく非難されました。内面が悪いから、外見ばかり取り繕うしかないのが分かる例だと思います。このファリサイ派たちの精神が、現代のパウロ教信者(カトリック、プロテスタント、正教会、その他諸教派)や律法主義者に受け継がれており、彼らが評価されることはありません。こちらも十分注意する所存です。

 

 

内面の善良さが相手の為にも自分の為にもなる 

 

先程まで、悪い内面によって人々が判断や選択を誤ってる例をいくつか列挙しました。当然ながら、反対に、「内面が善い」と言える状態もあります。人として真っ当な倫理観を持つなら、このような性格・言動・態度なら善良な人だと言える要素が思い浮かぶのではないでしょうか。例えば、思いやり、素直、義の貫徹、優しさ、謙虚、奉仕精神、誠実さ等。これらの根本にあるのは、真心からの愛、慈愛だと結論付けられます。創造主なる神御自身があらゆる面で「善」である要素を持っておられ(例えば、分け隔てなく人間を生かして養うこと(マタイによる福音書五章四十五節ほか参照)、主イエス・キリストが神でありながら被造物たる人間の立場にまでへりくだって清貧に生きて模範を示したこと)、神(イエス・キリスト)の性質そのものが正義であり慈愛だと言えます。神の律法、掟、戒めには、まさに神の性質が表れています。

個人的に、自分自身の姿勢を改めたことで、適切な選択と結果に繋がった経験があります。

わしは、日常生活や仕事における礼儀作法(所謂「マナー」と言われる物事)を学んだことがあります。その時の感想や学びの内容を話した時、ある人から言われたのが、作法や取組を形式的ではなく心を込めて行うべきだという旨です。本当にその通りだと心から思います。以前、「マナーなんて、いちいち束縛するみたいで面倒臭すぎる」と思ってた時は、全く身に付かずためにならんかったし、丁寧に実践できませんでした。そこで、礼儀作法一つ一つ行う意味や、あらゆる作法によって相手にどう好影響をもたらすか等を考えてみることにしました。客観的に自分にはどう必要となるのか等を真剣に考えてみることで、「守らなければならない」という義務感や億劫さを感じず、自発的に自分の行動や思考に取り入れていきたいと思えるようになりました。他にも、学校の授業であれ、資格取得であれ、勉強を必死にやってきた経験がある方なら、共感してくださるかと思います。何でこんなもんやらんといけんのと思ってるうちは、面倒で力が入らんものです。しかし、自己中心的な思い(悪い内面的性質)ではなく、やる意義を見出だせたなら言われんでも進んで取り組むようになるはずです。「好きこそものの上手なれ」という言葉に通じますし、身について出来るようになったらどんどん楽しくもなって好循環です。中には、どう考えても必要のない礼儀作法や勉強内容も存在しており、それらを懸命にする必要は無いと思います。物事が自分にとって必要か否かを正しく判断するためにも、あらゆる物事に関して意義を素直に考えたり客観視したりする(聖書の学びと実践においても重要な項目の一つ)必要があります。この姿勢は、神が人間に求めてることを、律法はじめ聖書全体から理解する時にも役立っています。神の律法、掟、戒めの内容を理解できれば、他の人間に対して「この人は何を考えたり求めたりしてるのだろう」と真心から考えて実行できる基礎となります。困ってる人が居れば隣人愛によって率先して助けるでしょうし、種類問わず惜しみなく善い行いをするようになります。しかし、動機が隣人への真心でなければ、見返りを求めたり、救いのためとか他人から良く思われたいだのと不純な動機が生まれたりするので、善い内面でなければ無意味です。また、「神に赦しを乞うて祈り求めれば無条件に救ってくださる(人間の律法遵守や行いが問われるわけではない)」と虚言を吹聴するキリスト教(パウロ教)の諸教派は、神が制定されたあらゆる掟の意味を考えようともせず、隣人愛がどうのと言いながら彼らに愛は全くありません。行いが人間の内面をありのままに映すのに、そう気付けないヤバさも大きな特徴です。彼らは、悪魔と同じように神より自分を愛し、高慢で、邪悪な内面だからです。

内面的な改善が、必要な知識の吸収や人との関わりの中で必要となるだけでなく、内面の善さは次の事柄にも繋がります。

続きをご覧ください。

 

 

主イエス・キリストを模範として内面を磨き続ける人だけ、最終的に悪人にも打ち勝てる 

 

内面が「善い」の基準や目指し方を自力で確信するのは難しいと思います。人それぞれ価値観の違いによる認識のずれがあります。なので、明確な基準が必要です。内面を磨くために全人類に共通して最も有益で重要なのが、聖書の神の律法、主イエス・キリストが示した模範です。神の律法、掟、戒めには、まさに神の性質が表れてると先程お伝えしたとおりで、多くの人々が無意識に抱いてるはずの「人としての当たり前」が必要な分書かれています。疑問に思し召しなら、世の中で起こる出来事と同じように、隅々まで吟味してはいかがでしょうか。特に、内面の善さの根源となる本物の「愛」の本質が書かれてるのは聖書の他にありません。ただ、聖書は市販の分だけでも膨大な量で、自分一人だけで全部知り尽そうとする必要はありません。「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」では、世の中の動きと関連付けて、身近な例えを用いながら、個人的な主観や偏見ではなく全て客観的根拠に基づいて論理的に聖書の真髄を解説し、聖書の内容理解への手掛かりが提供されてるからです。各記事での伝道内容は、聖書の教えの素晴らしさを裏付けています。世に出回ってる多くのブログとは異なり、中には一記事辺りの文字数が二万文字超の記事もあり、最初はその量に圧倒される人も居るかもしれません。しかし、内容に無駄な要素は一切無いし、一見本旨とは少し逸れる内容が混ざってても実は本題を補足する役割を果たしています。長いと思って拒絶する人を見掛けたことがあるのですが、決まって言葉遣いも粗悪で、傍から見れば惨めだと感じます。読解力の無さと攻撃性の相関は高いのかもしれません。知る機会を自ら反故にすることで、結局一番損するのは、拒絶する人自身です。

 

聖書の学びと実践を勧めるのは、決してこちらの利益のためではありません。聖書の内容理解を拒絶するなら、真の意味で世の悪のことも知り得ず、世の悪に抵抗する品性も身に付かず、損失しかないと断言できるからです。聖書に対する誤解を持ったままでいないで欲しい、聖書の価値を知って欲しいと思っています。しかし、世界中の全ての人間にとって聖書理解が必要である事実を認める人はごく僅かであり、善悪の基準も正しく弁えてない多くの人間の基準で物事が動いているのは変わりません。世の中の邪悪な実態を知りながらも、聖書を信用ならんと変な理由で拒絶するなら支配層の思う壺です。聖書を悪く思う人の心理は、自分の考えや価値観が否定されたくない思い(高慢)であり、例外は無いと思います。高慢は悪魔の神への反逆の根源の一つとなった、悪魔の品性の一つです(イザヤ書十四章参照)。最期まで主イエス・キリストに従い通せば、たとえ悪人どもに肉体は殺されても、主イエスの再臨時の死者の復活後に救われて永遠の安息に入る希望があるのに、現世の好転を期待するのだから、実のところ腐り切った世の中の方を愛してる証拠にもなります。そもそも、支配層の目的に気付いてる割合自体が少なすぎて、支配層にとって全く脅威にならず、世相の悪化は避けられませんし、聖書預言(※)からも近い将来の行く末を知ることが可能です(※聖書全体をよく理解し、原語を参照しつつ抜かりなく調査しなければ、間違った解釈になります)。主イエスが最終的にこの世が滅びると予告した(この世全体が悪に支配され、自浄作用が無い故に当然)のも無視するから、世の中おかしいと思っても、大多数と同様に自らの健康や金銭や楽しみばかり考える悪い姿勢に繋がっています。「この世に富を積み、この世に心がある」状態(マタイによる福音書六章二十一節ほか参照)ならば、やがて人権や自由が著しく制限された時には、生活のために渋々支配層の施策に屈するようになります。そんな惨めなことにならんためにも、自由がまだあるうちに、聖書に基づいて内面や生き方を劇的に改善していきませんか。内面を改めようとしない、周りの人間と比較して「自分は○○よりはマシ」等と高を括る、神による評価を考えもせず、人間各自の自分勝手な基準に甘んじるのは本当に勿体無いです。

 

 

ご自分の内面を振り返り、適切な選択・行動を取りましょう 

 

以前は、人間として正しい選択をするには、とにかく必要な知識を身に付けるべきだと考えていました。当然知識は必要ですが、人間自身の内面のことを軽視してた気がします。しかし、ミカエル氏が主イエス・キリストを模範とし、特に同胞の日本人のためにこれまで培ってきた知識や能力を活かし、無償で記事や動画を作成および提供し、分け隔てなく誰かに媚びることもなく真っ直ぐに義を貫く姿勢と、彼に続いて日々内面や力を磨いて着実な成長を目指す信仰の仲間(兄弟)の姿勢から、人間の成長や正しい選択には善良な内面が重要であるとはっきり理解できました。それは、コ□ナ犯罪でも大きく表れましたね。世間的に「頭が良い」と思われてる有名人らが、コ□ナなんて無いことに気付かず、こぞって有害無益な「感染症対策」やワクチン接種をごり押ししてたのは記憶に新しいです。また、保身に走ると、たとえ様々な嘘に気付いてても、周囲の間違いを弾劾して抵抗することができません。真っ直ぐに真実と向き合う人は、あらゆる世の欺瞞を見破り、悪を許さず、周囲に呼びかけながら悪に抵抗しています。

 

知識や能力だけでなく内面によって正しい選択ができるかどうか決まり、そして各自の運命が分かれます。人間の内面的な善さに含まれる普遍的な要素とその本質には、聖書を十分に理解しなければ一生辿り着けないのだとお伝えしたいです。まずは、聖書を手に取り、神の教えが如何に我々にとって必要な要素ばかりであるか調べてみてください。神を畏敬し、相手を思いやり、物事の意義をしっかり考えてみてください。それぞれの選択は各自の運命が掛かっています。