今年1年を漢字で表すと?
▼本日限定!ブログスタンプ

日本漢字能力検定協会が募集していた「今年の漢字」は「金」
に決まった。京都市の清水寺で森清範(せいはん)貫主が
巨大和紙に揮毫(きごう)した。1995年に始まった催しは
今年で30回目を迎えたが、「金」が選ばれたのは5回目。
3&5=8
2024/12/12・・・2&2&4&1&2&1&2=14
8&14=22(11×2)
ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の
清水寺で発表され、「金」(キン・かね)の文字が選ばれました。
▽オリンピック・パラリンピックの日本人選手などの活躍による、
光をあらわす「金(キン)」と
▽政治の裏金問題などの影をあらわす「金(かね)」の2つの
意味を示しているということです。

筆を執った清水寺の森清範 貫主は「金」(キン・かね)が選ばれた
ことについて「国民の皆さんの思いがこれに集中していると思う。
一番には、パリオリンピックにおいて大変活躍された選手への思い
が大きく、それから政治、あるいは社会での『金』(かね)に集中
したのではないか」と述べました。
その上で「日本の情勢や世界の世相を考えて、『和』という字が
書けるような社会になってほしい。社会も人も調和することが
望まれているのではないか」と話していました。
『金』=8
『和』=8
音羽山清水寺の開創は778年。現代から遡ること約1250年前です。
大きな慈悲を象徴する観音さまの霊場として、古くから庶民に
開かれ幅広い層から親しまれてきました。古い史書や文学のなか
には、多くの人々が清水寺参詣を楽しむ様子が描かれています。
清水寺の宗旨は北法相宗です。清水寺は開創以来、奈良仏教の
法相宗を宗旨とし、中世・近世においては法相宗大本山、興福寺
(奈良)の末寺でした。
一番の見どころと言えば八部衆像の一つ「阿修羅像・あしゅらぞう」
ですね!
国宝・八部衆立像の一つで、734年(奈良時代)に作られました。
八部衆(はちぶしゅう)とは仏法や仏教徒を守る神であり、
釈迦如来の眷属・けんぞく(部下)です。
もとは古代インドの神様で、それぞれがいろんなお姿をして
いらっしゃいます。
轟門の名前の由来
「轟門」の名前の由来は阿弥陀如来の名前が世界中に轟く」
もしくは轟門の下に流れていた轟川の川名の由来に基づく
と云われる。
轟(21)川(3)=24・・・2&4=6
「轟(21)門(8)」=29・・・2&9=11
清水寺梟の手水鉢
●清水寺梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)は轟橋
(とどろきばし)の横に置かれ、その台座に梟が彫られ、
清水寺七不思議に数えられています。
梟は鳥綱フクロウ目フクロウ科フクロウ属に分類される鳥類
です。梟は日本などユーラシア大陸の北部を帯状に分布し、
針葉樹林・混交林などに生息しています。日本では九州以北
の四国・本州・北海道にシマフクロウ・ワシミミズク・シロ
フクロウ・アオバズク・コノハズク・コミミズク・トラフズク・
オオコノハズクなどが生息しています。梟は眼が顔(顔盤)の
前面にあって視野が狭く、それを補う為に頸(くび)が180度
回転するようになっています。梟は夜行性で人目に触れる機会
は多くないが、「森の物知り博士」・「森の哲学者」・「森の忍者」
などと親しまれています。ちなみに江戸時代中期の1697年(元禄10年)
に記された「本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)」では人家に近い
と凶で悪禽(あくきん)とされ、父母や人間の爪(つめ)を食うと
記されています。
轟橋は川も池もないのに轟門(重要文化財)前に架けられ、清水寺
七不思議に数えられています。轟橋はかつて轟川(とどろきがわ)
という小川が流れており、轟川に架けられていたとも言われています。
また轟橋は手水鉢の水を流す為とも、聖地に架けられた橋を意味して
いるとも言われています。
梟は、部首は木部に属し、画数11画
八坂神社とは
平安京遷都(七九四)以前より鎮座する古社で、
「祇園さん」と呼ばれ親しまれております。
主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)はあらゆる
災いを祓う神様として信仰されており、境内には
数多くの神様をお祀りしております。
全国約二、三〇〇社鎮座する八坂神社、祇園信仰神社
の総本社です。
神社の創祀に関しては、複数の説が存在しますが、一つ
の説によると、八世紀中頃、高麗からの渡来人がこの地
に素戔嗚尊を祀ったことが始まりとされています。この
事実は、日本の宗教文化における多様性と、外来文化の
影響を物語っています。その他、貞観年間に僧・円如が
お堂を建立し、神社が成立したという説もあります。
これらの説は、八坂神社が古代日本の宗教文化の中でいか
に重要な位置を占めていたかを示しています。
祭神の素戔嗚尊は、日本神話の中でも重要な存在です。
伊邪那岐命と伊邪那美命の子であり、八俣大蛇を退治した
英雄としても知られています。
祇園守紋とは、京都八坂神社が配布するお守りのこと。
単に「守り」とも呼ばれる。祇園とは「祇園給孤独園」
「祇園精舎」の略で、その守護神は牛頭天王、疫病や
災難から守る意味合いがあり信仰から家紋となった。
中央で交差する巻物を十字架に見立てて、隠れキリシタン
も使用した。
【祇園祭とムクゲ(祇園守(ぎおんまもり))】
祇園祭では祭花(まつりばな)としてヒオウギ(檜扇)が屋敷
の床の間や玄関などに活けられたり、家の軒先などに飾られた
りします。八坂神社ではムクゲ(槿・木槿)を献花として飾る
習わしがあり、祇園祭期間中にはムクゲを神前に御饌花として
供えます。また八坂神社では祇園祭期間中に半八重咲きの可憐
な白い花を咲かせるムクゲを「祇園守」と称して授与しています。
「祇園守」の名称はムクゲの五弁の花が八坂神社の神紋である
「左三つ巴(ひだりみつどもえ)」・「五瓜に唐花(ごかにから
はな)」の内、五瓜に唐花に似ているから名付けられたとも
言われています。またムクゲは中心部の蕊(しべ)が十文字で、
鈴つきの護符「祇園守」に似ているところから名付けられたとも
言われています。八坂神社では本殿(国宝)裏にムクゲ(祇園守)
が植えられ、7月の祇園祭が始まる頃から咲き始め、一日花が
次々と入れ替わるように咲き、祇園祭が終わった8月も楽しむ
ことができます。なおムクゲ(祇園守)は花が半八重咲きで、
外弁と内弁の大きさの比率が100分の40以下、内弁の数が
10以上・30個以下のものと定義されています。
ムクゲの「信念」という花言葉が付けられました。
十字軍の聖地・エルサレムを奪うという熱い意志がムクゲ
の花言葉にも反映されたのでしょうね。
学名のHibiscus syriacus(ハイビスカス・シリアカス)は
「シリアから来たアオイ科の植物」という意味を持っています。
ちなみに、昔は「Althaea frutex(低木のタチアオイ)」と
されていました。
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)
に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊
(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべの
ひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾
を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)
の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする
八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)
を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われて
います。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
【祇園祭と藤原宗忠の「中右記(ちゅうゆうき)」】
祇園祭は葵祭とともに千年以上の歴史があるが、平安時代中期頃
に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛していました。その後平安
時代中期の999年(長保元年)に山鉾の起源とも言われる大嘗会
(だいじょうえ)の標山(しめやま・ひょうのやま)に似た作山
などが祇園祭に現れ、祇園祭が徐々に賑やかになっていきます。
公卿・藤原宗忠(ふじわらのむねただ)が記した「中右記(ちゅう
ゆうき)」では祇園祭が現在の様式が整うまでの過程を知ることが
できます。
藤原宗忠は関白・藤原忠実の政治顧問になり、白河法皇(第72代
・白河天皇)や第73代・堀河天皇にも重用されました。藤原宗忠
は有職故実に精通し、音楽の才もあって管絃をよくしました。
音律に関する著書「韻花集」・「白律韻」を記したが、現存して
いません。なお藤原宗忠は1141年(永治元年)5月27日に亡く
なりました。