箱根七湯を浮世絵で始めて紹介したのは、鳥居清長の「箱根七湯名所」
(天明元年(一七八一)・永寿堂)であった。清長は、このシリーズで七湯の
各湯治場に江戸美人を配し、情感溢れる七湯浮世絵を描き出している。
しかし、箱根七湯の風景や風俗が実在感をもって描き出されるのは、
旅の浮世絵師安藤広重の登場を待たねばならない。
広重が描いた箱根七湯の浮世絵は、箱根塔之沢を画題とした「箱根湯治ノ図」
(本朝名所)(天保三~十二年・松原屋)をはじめとして「箱根八湯」(天保六・
七年・堂川堂)、「箱根七湯図会」(嘉永五年・佐野喜)、三代豊国との合作
「雙筆七湯廻り」(安政五年・伊場仙)、「七湯方角略図」(安政前期・福住九蔵版)、
「箱根湯本福住九蔵宅図」(安政前期・同上)その他一四点を数え、更に丹波
コレクションの「箱根写生画帖」(神奈川県立博物館蔵)などの肉筆浮世絵など
を加えるならば、その点数はかなりの数に達する。
神霊の山(古代から近世まで)
箱根の主峯は神山と呼ばれている。古来神山は山岳宗教の霊山として崇敬され、
人々はみだりに近づかず、山林には斧鉞が入れられなかった。
奈良時代、万巻上人は箱根権現を創建した。
関東大震災の深い傷あとから箱根山がようやく立ち直りつつあった昭和五年
(一九三〇)、再び大地震が箱根を襲った。昭和五年十一月二十六日午前四時
三分、伊豆半島及び箱根を中心に起きたいわゆる豆相地震である。
震源地に近い三島測候所では、地震計が測定できぬほどすごいものであった
という。この地震により箱根地方、特に震源地に近い箱根町、元箱根、芦之湯
地区は大きな被害を受けた。家屋の倒壊、道路の決壊が至るところで起き、
交通が杜絶した。
昭和四年(一九二九)十月、ニューヨーク株式市場の暴落から起こった恐慌は、
昭和五年(一九三〇)に入ると日本へも波及し、当時横浜口雄幸内閣によって
進められていた金解禁政策により不景気の色の濃かった日本経済は、世界
恐慌の荒波を受け、予想以上の苦境に陥った。
恐慌の衝撃は、造船、鉄鋼、電気など京浜地区の基幹産業を揺り動かし、
暗い不景気のどん底に低迷した。大正後年から交通機関の整備とともに
大衆化の道を歩み始めてきた箱根温泉も、入湯客の減少という事態の
なかで、不景気からの脱出を誘客宣伝と環境整備に求め、箱根振興会を
中心として精力的な活動を開始した。
五&十一&二十六&四&三=42&7=49
五&49&三=5&52=57・・・5&7=12(6 6)
(Wiki)
北伊豆地震(きたいずじしん)は、1930年(昭和5年)11月26日早朝に発生した、
直下型の地震。地元では伊豆大震災(いずだいしんさい)とも呼ばれる。
震源地は静岡県伊豆半島北部・函南町丹那盆地付近。地震の規模はMj7.3
(Mw6.9)。北伊豆地震地震断層系の丹那断層などの活動により生じた。
震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測したほか、有感地域は広く、
北は福島県・新潟県、西は大分県まで揺れを感じた。地震発生が早朝だった
ため、火災は少なかったが、死者・行方不明者272名など大きな被害を出した。
発生日 | 1930年(昭和5年)11月26日 |
---|---|
発生時刻 | 4時2分46.9秒 (JST) |
震央 | 日本 静岡県伊豆地方 北緯35度2.3分 東経138度58.6分(地図) |
震源の深さ | 1 km |
規模 | マグニチュード (M)7.3 |
最大震度 | 震度6:静岡県 三島市 |
1&9&3&1&1&2&6&4&2&4&6&9=23&25=48
3&5&2&3&1&3&8&5&8&6=13&31=44
1&7&3=11
48&44=92・・・9&2=11
箱根は台風被害・コロナの影響で、大変みたいです~
昔も同じような時期があったのですね
震源の深さ1キロってあり得ないですっ
死者・行方不明者272名・・・2&7&2=11