マスターズ開幕と言えばオナラリースタート。
野球で言うところの始球式であるが、
このところはアーノルド・パーマーとゲーリー・プレーヤー、
そしてジャック・ニクラスの3人で行なうのが恒例であった。

しかし86歳になるパーマーさんはご高齢ということで今年から辞退することになった。
介助者に付き添われて来場する姿にかつての精悍さはないものの、
いるだけその存在の大きさを感じるのは、きっと彼の培ってきた人徳なのであろう。

驚きは80歳のプレーヤーであった。
現役時代から小柄体型のハンディーを補う厳しいトレーニングで有名だったが、
スピードこそ落ちたものの、当時と全く変わらないスイングであった。
パトロンの歓声の大きさがフェアーウェイ中央を捉えるグッドショットだったことを教えてくれた。

帝王と呼ばれた史上最強のゴルファー・ニクラスも今年76歳になる。
癌との闘病から復帰し、数年前からこの舞台に戻ってきてくれてはいるが、
その姿を見れるだけでも幸せなことである。
100年先でも語り継がれるであろう伝説のゴルファーなのだから・・・

全盛期を思わせるアップライトなスイングは依然健在ということで・・・・
それでもやはり歳をとったな~と思いました。
間合いやタイミング、仕草は全く当時のままなのですが・・・

思えば86年マスターズ、ニクラス奇跡の大逆転優勝から今年で30年が経つのです。
当時流行ったデカパターを天に突き上げるバーディー奪取の光景は
19歳の私の脳裏にしっかりと焼き付き、その感動と共に今なお蘇ってくるのです。

目映いばかりに輝きを放っていたあの時のニクラスが・・・・ なんと・・・

時間が過ぎたんだな~  本当に過ぎ去ったんだな~
 
今現在から30年後、我ら同年代は皆・・・・人生の終盤を迎えているはず・・・
その時になお、フェアーウェイの中央を打ち抜けるような生き方をしておきたいものだと、
今日のオナラリースタートを見ていて感じた次第です。




一生不悟とは、”いっしょうふご”と読むようですが・・・

先日相田みつをさんの美術館に行った際に見つけました。

一生燃焼
一生感動
一生不悟

という作品の中の言葉です。

最近テニスの錦織圭さんがこの作品に感動したそうで・・・・

ただ、1行目、2行目の意味はよく分かりますが、
3行目との繋がり合いが、どうもピンとこないのです。

不悟・・・・悟れない? ・・・・学び続ける。


こんな解説をしている人がいました。

この作品は逆から読むと意味が分かりやすいと・・・

一生悟れなくてもいいから、一生感動しながら、命を燃やし続けていたい。

なるほど・・・

とかく人は歳を重ねるごとに、物事を理解し迷いのない境地に達したいと思うものである。
しかし、迷いのない世界とは、命を燃やし続けるような感動のない世界なのかもしれません。

彼の作品の中には『一生青春』という言葉もありますが、
生涯において1つとして納得出来る作品がなかったそうで、
それも命を燃やし続けるために、あえて納得しなかったのかも知れませんね。



この作品、私にはこのように感じ取れます。

日々の生活の中にある、迷うこと、悩むこと、苦しむこと、
それらを天から授かった自身の課題と受け止めて、
あえて正面から立ち向かい、乗り越えようと必至に生きること。
それこそが、その人なりの輝きある人生の過ごし方なのだ・・・・と。。

そして、今この時、迷い、悩み、苦しんでいる人たちへの
彼からの熱いメッセージなのではないかと・・・・・









横綱白鳳が8ヶ月ぶりの優勝
おめでとう!と気持ちよく祝福してあげたいところだが、
場内は大ブーイングの嵐・・・
満員御礼の場内から、半数以上がすぐさま会場を後にした。

千秋楽の結びの大一番に勝ったことでの優勝というのだが・・・
問題はその相撲の内容にあった。

白鳳の立ち合いの変化で日馬富士が突き落とされたのである。

立ち合いに“変化”するとは・・・
横綱がそれも千秋楽、横綱同士の大一番ではあり得ない取り口。
ということである。

優勝後のインタビュー
質問にはまともに応えられない白鳳。
本日の不甲斐なさに対して詫びを入れる始末。
感極まったのか?不甲斐なさからなのか?
最後は涙をこらえて話すことが出来ず、途中で打ち切られる状況になった。

その姿を見た会場の空気は一変し、白鳳擁護の雰囲気が漂うことに・・・

しかしそれでも
大一番を楽しみにしていた視聴者や相撲ファンの声を代弁するように
力と力のぶつかり合う相撲こそがこの大相撲の根幹であるという
元小結・舞の海の厳しいコメント。
ある意味、真っ当な意見である。


その反面、
解説をしていた元横綱・北の冨士は
直後は不甲斐ない姿の横綱をバッシングしていたが、
涙をこらえて話すことが出来ないそのインタビュー見て一変した。
自身も目頭を熱くして私はこれで十分だと・・・
横綱同様に涙を堪えていた。


そもそも相撲の立ち会いなど、ましてあれだけ集中力が高まっている大一番では
心・技・体に積み上げられたすべての力が一瞬に放出されるもので、
自身の表面的な戦略など何の役にも立たないはずでありる。

相手も大横綱である。勝負に拘り、勝つことを優先したとはいえ、
鋭い洞察力と直感が働かなければ簡単に勝てる相手ではない。
立ち会いの変化を卑怯と見る傾向があるが、
小細工など通用するレベルのものではなかろう。と私は見ている。


ところで、
横綱であることはその相撲に品格と同時に勝ち続けることが求められている。
その重圧がどれだけのものなのか?
言いたいことばかりをいう横綱審議委員会などという会があるが、
大相撲を支えるその重さを想像し理解出来る人間がどれほどいるのであろうか?

本日の一番は、横綱としての品格か?それとも勝つことか?
その究極の選択を迫られ、前者を捨てて後者を選択しただけであろう。

しかしそこに至るまでの背景と彼の涙をの意味を
完全に理解することなど誰にも出来ないはずである。

なぜなら、前人未到の36勝目なのだから・・・・
唯一その重圧を誰よりも知る元横綱だけが、彼の理解者だったのであろう。

横綱であること、
若手力士の突き上げが厳しい中で、大相撲を永年にわたり支え続けていること、
横綱審議委員会や厳しい相撲世論に堪えながら応え続けていること、
それらが如何に厳しいことなのか?

そんな見えない背景を強く感じる今日の大一番であった。

ただ一言、私が言いたいことは、
日本人が全く活躍出来ない現状で、他のどんな力士よりも日本人らしい横綱が
今の大相撲を支えているのだ。
どういう相撲であれ、この大横綱の相撲をLIVEで見れることは有り難いことである。