さて、いよいよ、核心に?迫っていきます。


秦王朝と日本の古代にどのような関わりがあるのかを紐解くには、伊邪那岐神と伊邪那美神の登場まで戻る必要があると私は考えました。


まずは、少し日本の国土の成り立ちについて振り返ります。

日本の国土は元々大陸の一部でした。

日本に人が入り始めた三万年前〜一万七千年前は氷河期の影響で、まだ海面が浅く、列島は今のような完全な孤島ではありません。

日本海はどでかい湖畔のような形で、大陸と列島は北側はシベリア側と西側は島根付近、北九州と繋がっていました。

これは、イメージしやすいよう、参照リンクを貼りますね。


https://images.app.goo.gl/1HSwBDcYS4FS4PJb8

どんな人たちの移入があったのかも、研究は進んでいて、沖縄と北海道の遺伝子が近いとか、本州は様々な混血が見れるけれど、根本的にチベットの人たちと遺伝子と近いとか、まだまだ論争も尽きないようですが、大まかそういう結果が出ているようです。


さて、そんな基礎的な知識をイメージしたまま古事記に目線を変えてみます。


伊邪那岐神と伊邪那美神は混沌としたまだはっきりとしない時代にやってきたとされています。

でも私は、2柱が降臨された頃にはもう既に住んでいる人がいたと考えました。


そういう中で、伊邪那岐神と伊邪那美神が神様となる理由は、二柱が個々の生活ではなく、国を作るという概念を持って渡来した祖先だからではないか、と思うのです。


ちなみに、二柱は、ご自分の意思で来たのではありません。天からの命を受けて降臨されました。


では、古事記の指す天とはどこか。


これは、本当に永遠と考えるべきテーマですが、天を祖先の住まう土地、と捉えれば、現実的には、大陸側の土地を指しているとイメージしたほうがいいかなというのが今の私の見解です。


そのヒントとなったのは出雲にある日御碕神社。



日御崎神社の天照大御神は日沈宮に鎮座されます。
お社の建立こそ新しいものの、日御碕神社は古来より沈む日を崇拝した地とのこと。 


御社が建立される前の鎮座地「経島(ふみしま)」

ここは、なんというか。。
今までに感じたことのない程の圧倒的聖地といいますか。。人が踏み切ることはできない禁足地という印象です。

天照大御神をお祭りする神使は鶏で、まぁ、鳥の種類は異なりますが、めっちゃ守られております。 

この日は、遠くから遥拝させていただきました。



出雲は日の沈む場所。「日の本の夜を守る国」であるという伝承があると言います。

伊邪那岐神より「夜を守れ」と命を受けたのは「月読尊」ですが、日御碕神社の日沈宮に祀られているのは「天照大御神」です。

そこで、そもそも「夜を守る」とは何か。
日本人が天照大御神を祖先とするのはなぜか。
月夜見尊とは。。
ふわふわとした疑問を持つことになりました。

実はですね、大阪にもあります。夕日信仰。
四天王寺夕陽丘から、徒歩5分の位置にある大江神社は四天王寺七宮であり、四天王寺を中心として北西に鎮座します。
かつて夕陽の名勝地と尊ばれた地に鎮座する神様は豊受大御神です。
更に、四天王寺には沈む夕日を祈念する日想観という信仰があります。西には極楽浄土があり、そこに無事にたどり着けますようにと手を合わせます。

すなわち、死んだ先の世界が西にはあるという概念。


西に沈む夕日を人の人生の終わりに例え、間もなく訪れる死の世界を「夜」という。
これは、個人の人生を指すのではなくて、亡くなった人、つまり祖先(ヒ=霊)を大切になさい、という意味合いではないかと思われます

ふわふわとした疑問が突然に形を成します。

天照大御神を祖先とし
夜を祖先と置き換えるならば

それはそのまま、日本に根付く宗教思想(先祖崇拝)と合致します。

即ち、月夜見尊の役割は、祖先の教え「ヒ(魂)」をつなぐ存在ではないかと。


話を戻しましょう。
伊邪那岐神と伊邪那美神のやり取りは男女の営みに擬えた描かれ方をしています。

それはそれで道徳的な要素もあるからゆえかも知れませんが、今は、それだけではないと思うようになりました。


伊邪那美神から積極的に誘いをかける様子は、二柱が向き合った時に、伊邪那岐神の方に魅力(文化的発展の高さ)があったからではないかと。


伊邪那美神から声をかけて始めた国生みは、残念ながら、何の形にもなりませんでした。

これは、伊邪那美神の教えでは人々の心を動かすまでの何かが足りなかったことを示しているのでは?と思います。

そこで今度は伊邪那岐神から声をかけます。

そうすると次々に国が出来上がりました。

当時の人達の心を動かす要素としては、安定した食の確保、即ち、飲める水、食べられる食物、効率的な狩りの方法、保存法、調理法を伝えたのかもしれません。そういう知識の高さが伊邪那岐神にはあった。

何よりも、伊邪那岐神が男性であり、その血を繋げるという意図を含んでいたとすれば、すなわち父系を繋ぐ事の大事さを暗に伝えてくれている気もします。


伊邪那岐神のリードの下、伊邪那美神の生み出した国は、淡路島に始まり、佐渡ヶ島まで、ほぼ西日本を網羅する大八島国を生み出しました。

生み出したそれぞれの国には、配置するリーダーが既にいるのか、国の名前と、神様の名前を与えています。


さらにその後も六島を同じように生み出しました。


この生むということは、単に島ができた話ではなく、

国生みから、伊邪那美神がお隠れになるまでに、伊邪那岐神が交流を持ち育てた島々を示したものと考えてみます。


更に二柱は、文化を築くための役割のリーダーを次々に決めていきます。石で道具を生み出し、雨を凌ぐ屋根を作るようにしました。

その後、大海神が登場します。海をわたり移動する者が現れたようです。また、山の水も管理し始めています。人々の行動範囲が広まっていることが想像できます。


そうしているうちに、今度は天鳥船が登場しました。「天」とついていますので、いよいよ大陸から船を扱う者たちがやってきたようです。


船を作れるなんてすごいですよね。

はじめは丸太につかまって川を渡るくらいだったのでしょうが、ツルなのか紐なのか、繋げてみたら、座れるじゃん!てなって、何人か乗ってもいけるじゃん!となり。。いやー。。想像してみましたが、人が航海にまでたどり着く道のりは。。遠いです。

さらに、遠くにたどり着くには航海するわけですから、余程の技術と知識が必要です。

この事から、海を渡れる人達の土地では、かなり文化が発展している事が分かります。


そんなに発展しているなら、そのままそこで暮らせばいいのに、わざわざ海を渡って移動するわけですから、訪れる側にも相応の理由があったと考えたほうが良さそうです。

そもそも論として、なぜ伊邪那岐神と伊邪那美神が天からの命を受けて、未開の土地で国造りを行ったかといえば、自分たちの住まいを開拓するためだったのではないでしょうか。


いずれにせよ、天鳥船の来訪で、国土は更に開拓が進んで行きます。

天鳥船でやってきた大宜都比売命により、農作物を育てる沢山の種子が手に入りました。

更に火を使うようになります。文化の大きな発展です。

しかし、火事でも起きてしまったのでしょうか。伊邪那美神が大やけどで致命傷を受けてしまいました。


一方で、火の登場により、鉄を作り器を作ることができるようになります。

更には、土の肥やしに糞尿を活用します。これにより、飛躍的に食物の育ち方が変わったのでしょう。食事の幅まで広がっていよいよ豊受姫大神が誕生します。明らかに食が豊かになったことがわかります。


このような素晴らしい文化の発展とは裏腹に、致命傷を負った伊邪那美神は命を落とし、出雲より黄泉の国へ送られました。


傷心の伊邪那岐神は十拳剣で火を伝えた火之迦具土神の首を切り殺してしまいます。しかし今度は、首を切った剣に火が付いた事で、岩を割くほどの剣が生まれてしまいました。

どうやら武器の製造が始まったようです。戦いが起きた可能性が見えてきます。


生活が豊かになったからこそ、生じる亀裂。

または、魅力的な発展をしていれば当然に外敵も増えたのかもしれない。周辺からの唆しもあったかもしれない。


伊邪那岐神は「黄泉の国」へ行き、伊邪那美神にまた一緒に国を作ろうと言いますが、伊邪那美神は既に他界されていますので、隔てた向こうから声はするものの、当然に会うことはできません。

覗きこんで見れば、伊邪那岐神が「黄泉の国」にいると思っていた、共に国を作ってきた妻は変わり果てた姿になり、雷を鳴らし、威嚇し、あわよくば、作り上げてきた伊邪那岐神の国をも食い尽くそうとして、輩を遣い、次々に襲ってきます。

その凄まじさは、伊邪那岐神の命を奪う勢いです。


この状況を、私は西の大陸から敵が襲ってきた状況と考えています。西の大陸にあった祖国がいつの間にやら、似て非なるものになりすまされ、あろうことか伊邪那岐神の国へ襲いかかってきたのではないでしょうか。


伊邪那岐神は、応戦こそするものの、劣勢のまま、黄泉比良坂出口の近く、すなわち出雲までなんとか戻ることができました。


そこで、突如助っ人の登場です!!


伊邪那岐神を守り、これ以上、輩に好きなようにはさせないと伊邪那岐神を守る3つの桃!


伊邪那岐神が、この桃を輩たちに投げたことでたちまちに黄泉の軍隊が逃げ帰りました。


桃には厄除けの意味があるからとはいうものの、それだけを追い返せた理由とするのも安直です。


なぜならば、この時に、それまでの国のリーダーである伊邪那岐神が

「私を助けてくれたように、これから国の者たちを助けてあげて欲しい 」

と言っているからです。

いくらなんでも生きるか死ぬかの場面ですから、まさか本当に果物に語りかけたなんてことは普通に考えにくい。


だから、桃の伝来元となる場所は勿論、この桃に名を付けたことに意味がある。


では、桃は元々どこが起源か。

中国北部の黄河付近にある高原地帯が原産地ということ、日本では六千年前には桃が伝わっていたとされ、その種が長崎で見つかっているそうです。

氷河期が終わり、海面上昇が進んだ時期と桃の種が確認される時期と重なるのはなんとも興味深く、今回の話の仮説として、桃を伝来させた者が北九州付近に腰を据えていたと思われます。


そして、その桃の原産地こそ、秦始皇帝が拠点をおいていた甘粛省なのです。


では、伊邪那岐がつけた名を確認しましょう。

意富加牟豆美命。。。

なんと「意富」の登場です。


鉾を持ち美しい豆を持つ王。という意味に見えるのは、私だけでしょうか。

文字から読み解けば、農業にも武闘にも長けた王という意味になります。


そして、この意富こそが、秦氏の祖先というのが私の結論になります。


いきなり、これでは唐突すぎるので、なぜ彼らが後に渡来人とされるのかをさらに伊邪那岐神の禊以降になぞらえてお伝えしたいのですが。。


今回も大分長くなってしまいましたので。。

続きはまた次回に。。。


これ、終わるのかしら(笑)


良かったら、またご覧いただけたら嬉しいです!


※記載の内容は、あくまで仮説です。

そんな考え方があるのか〜的に読んで頂けたら幸いです。