【投資家のための金融史 板谷敏彦】第4章 産業革命とアメリカの台頭(11) | 人生の水先案内人

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2012.10.16 05:00

■大暴落とチャプリンの「街の灯」

1929年のウォール街の大暴落は、10月24日の木曜日から始まったので「暗黒の木曜日」と言われている。


実際には暴落は1日だけの出来事ではなく、1日の下げ幅で見るならば翌週の月曜や「百万長者大虐殺の日」と呼ばれる火曜日の下げの方がはるかに激しかったし、ダウ工業株価指数で見れば29年9月3日の高値381.27から32年7月8日の41.22まで、3年間かけて約10分の1にまで下落したのである。


長い下降相場だった。

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大暴落に至る「熱狂の20年代」と呼ばれるバブルは共和党の第30代大統領カルヴァン・クーリッジの任期(1923~29年)と重なりあっている。


彼は各家庭に普及したラジオを使って演説した最初の大統領だった。


この間にリンドバーグは27年に大西洋を単独で飛行し、乗機を制作したマーチン・ライトの株価を飛行後の9カ月間で10倍にまで押し上げた。


大衆の間にはスーパー・マーケット・チェーンや月賦販売が登場しラジオや冷蔵庫、自動車などを買いあさった。


当時を描いたベストセラーである「オンリーイエスタデー」には、26年販売の自動車の65%が、またデパート販売の40%が割賦販売だったとある。


このおかげでアメリカの自動車は20年代に700万台から2300万台にまで増加した。


米国の鉄道の総マイル数は30年に早くもピークを打ち、自動車にバトンを渡したのである。


13年には金融政策を駆使する米連邦準備制度(FRB)が設立されていたので、アメリカでは循環的な不況はもはや起きるはずがないと考えられていたし、ハーバード大学にMBAコースが設けられ、科学的な経営が米国企業の将来を保証しているようにも思えたのだ。


さらに1920年の禁酒法がアメリカの酔っぱらいを減らし生産性を上昇させるだろうと固く信じられていた(ウォール街は自分たちだけは酔っ払いながらも他の人は多分そうだろうと信じていた)。


アービング・フィッシャー教授は経営技術の進歩によって米国企業は反映を極めると信じ、バブルの最初から、また大暴落が始まってさえも強気の発言を続けていた。


おかげでこの後しばらくは、まともな経済学者は株式市場にかかわることを避けるようになった。

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映画の世界にも技術革新が起きていた。


27年に世界初のトーキー映画のひとつである「ジャズ・シンガー」が公開された。


世間は音の出るトーキーに色めいたがチャプリンは彫刻に色を塗るようなものだと新技術には否定的だった。


トーキー映画「ブロードウェイ・メロディ」が大ヒットし上映館がみな音響設備を備える中、チャプリンは次回作「街の灯」もサイレントでいくことにした。


29年の10月23日は大暴落の前の晩である。チャプリンは作詞作曲家のアーヴィング・バーリンと食事をしていた。


バーリンは名曲「ホワイトクリスマス」やアメリカ第2の国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」の作者でもある。


自伝によるとチャプリンが「失業者が1400万人もいるのに株など信じられるか!」と言うとバーリンは「君はアメリカを空売りするつもりか!」と激怒したそうである。


バーリンはロシア移民の熱烈な愛国者であったと同時に信用取引でたんまり株を買っていたが、チャプリンは前年に持ち株をすべて処分していた。


バーリンは翌日の株価下落で全財産が消し飛んだ。


2日後にバーリンは悄然(しょうぜん)としてチャプリンのスタジオを訪れると激怒したことをわびてこう聞いた。


「ところでその売りの情報はどこで手に入れたのだ」

 撮影中の「街の灯」は失業者が主人公である。


株価がピークを打つころには街に失業者があふれていたことを示している。

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1925年。当時金本位制に復帰したばかりのイギリスは金流出を防ぐために金利を上げたが、FRBはバンク・オブ・イングランドを支援するために景気の過熱が懸念される中で金利を下げバブルの形成に一役かった。


28年に方針変更して公定歩合を何度か引き上げたが、「投機を抑えるには低すぎるが、経済全体への影響を考えれば高すぎた」と後に評されることになった。