【投資家のための金融史 板谷敏彦】第4章 産業革命とアメリカの台頭(7)
2012.10.4 05:00
■南北戦争とリテール・セールス
咸臨丸が遣米使節団を乗せて太平洋を横断しアメリカを訪問したのは1860年である。
遣米使節目付、小栗忠順はフィラデルフィアで日本の金流出の原因となっていた金銀の交換比率改定の交渉に臨み、アメリカ側は小栗の実証実験に納得したが、それでも比率の改定には応じてくれなかった。
この年の12月、サウスカロライナ州は連邦政府からの脱退を表明し、翌1861年2月には南部連合の結成が宣言された。
アメリカは南北に二分された。
3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、その5日後には南部連合議会は北部とは別の財務省証券と独自通貨の発行を許可した。
南北戦争である。
ニューヨーク証券取引所は合衆国連邦政府(北軍)の支持をすぐさま決議した。
南部出身の証券業者もウォール街に残っていたが、少しでも売り注文を出す者がいれば南軍支持者と決めつけられたので売り注文は出せなかったそうだ。
おかげで開戦後の株価は安定していた。
NYSEは出征する兵士をたたえる決議もしたが、自分たちが招集されるとお金を出して代わりの者を戦争にいかせた。
ウォール街は昔から要領のいい人間の集まりだったのである。
■ □
連邦政府は軍資金調達のための国債消化に苦慮していた。
ペンシルベニア州は300万ドルの州債を発行しようとしたが、1841年に一度デフォルトしていたので買い手がいなかった。
当時フィラデルフィアの駆け出しのプライベート・バンカーだったジェイ・クックはこれを引き受け「愛国心に訴える」ことでこれを消化した。
クックは一口の販売単位を個人でも買える50ドルに落とし投資家の裾野を広げ、地方新聞の広告欄をフルに活用したのである。
金持ちの知り合いというコミュニティーの中だけに投資家を限定せずに一般大衆にまでひろげた。これがリテール営業の走りである。
その後連邦政府(北軍)は償還期限20年、クーポン6%、5年目以降随時償還の国債を5億ドル発行しようとしたが、政府は開戦以降正貨支払いを停止していたのでこれも人気がなかった。
窮地に陥った財務省はフィラデルフィアでのクックの評判を聞き、彼に販売を頼んだ。
クックは従来の投資家層である銀行家や商人は買わないだろうと考え、特別の販売チームを編成した。
北部大都市や州政府、実業界から2500人のエージェントを選抜したのだ。
主に小規模銀行や保険外交員、
不動産ブローカーなどからなる彼らは
各地に散り、
一般の小口投資家一軒一軒の人々に「愛国心を鼓舞」し、
なぜこれが有利な投資であるかを説明し
(6%のクーポンは金で支払われるので実質8%利回りの価値があった)
国債を販売した。
この国債販売はアメリカの証券投資家人口の裾野を広げその後の米国における証券投資発達の基礎となった。
■ □
さらにクックは地方の拠点と本拠地のワシントンを、当時開発されたばかりの電信で結び、販売部隊のネットワーク化と販売情報管理の一元化をも成し遂げた。
以前は数週間かかっていた全米の債券販売状況がその日のうちに把握できるようになったのである。
ウォール街はクックの利用した電信技術を別の目的でも使用した。
とにかく誰よりも早く戦況に関する情報を得たいブローカーたちは使用人を軍隊に同行させ情報収集に当たらせた。
私設の専用電信設備が何ルートも設定され、たいていの場合ウォール街はワシントン政府よりも情報が早かった。
大胆なブローカーは南軍にスパイを送りこみ、このスパイは南軍の連隊長クラスが命令を受ける前に作戦の全容を把握していたそうだ。
もっともこの先進的なブローカーだったジェイ・クックの末路は芳しいものではない。
彼は1873年の恐慌で、ノーザン・パシフィック鉄道債を抱え込んだまま倒産した。