舌耕 | 噺新聞(874shimbun)

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四月からEテレで始まった「おとなのEテレタイムマシーン」このチャンネルに合わせると、小沢昭一のナレーションから番組は始まった。

舌耕(ぜっこう)という言葉が昔からあります。

舌で耕すと書きます。

お百姓さんが田んぼや畑を耕して作物を作るように、

舌で耕す稼ぎのことです。

舌でどこを耕すのか、人の心をです。

ひと言、ひと言、人の心の中を耕やして、

笑いと泪とさまざまな感動の実りをもたらすのです。

時には生きる喜びさえも。

そいう言葉一筋の話芸をお百姓さんのあのコツコツとやる仕事をなぞらえて、

舌耕といいました。

「日本の話芸」はそういう舌耕の名手をお招きします。

そういう話芸の名人をあなたの心の中に宿していただくために。

 

いい言葉ですね、舌耕。

私は、18で上京し、落語を知り、この語りで言う人の心の中を耕され、現在に至っています。

私を落語に導いてくれたのが、古今亭志ん朝師匠でした。この師匠を追いかけ、数十年。いまだにこの師匠への思いは消えていません。

「おとなのEテレタイムマシーン」、四月から放送されたのは古今亭志ん朝、桂枝雀、立川談志。

その放送の中から1993年、霞ヶ関イイノホールで収録された東京落語会の古今亭志ん朝「愛宕山」へのひと言を。

写真は2024.4.23NHKEテレの放送を撮影したものです。

落語に限らず舞台、歌舞伎、講談、音楽などまだまだいっぱいあるが、やはり、生でその場に浸って感じることが一番と思っている。

でもそれ以外で、それを楽しむこと、落語であればラジオ、CD、 TV、YouTubeなのかもしれない。

落語を聴き、それを楽しむのはラジオでもいいが、聴かされて想像するだけでなく、語りながらその形態を観てより楽しむことができる咄は映像という手段を借りなければその咄を数段楽しむことができない、そんな話が「愛宕山」かもしれない。

 

こんな志ん朝師匠の着物姿、着物選び、着こなし、その姿がピッタリな噺家は数少ない。

二ツ目、真打の噺家は羽織姿で高座に上がるが、その羽織の脱ぎ方、その所作にも噺家独特のものがあり、志ん朝師匠は羽織を脱ぐということもこの「愛宕山」では幇間の一八(いっぱち)が愛宕山を登り始める時にその羽織を脱ぐ仕草で具体的に聴き手にそれを知らしめる効果的なイメージにしている。

そして山登りを始めて、汗をかき始め、難儀している様子を語りながら、扇子を使い、手拭いで身体の汗を拭う

所作でこちら側に伝えてくれている。

 

 

高座の着物姿で、懐手(ふところで)でその姿を表現することは、よほど着物姿に慣れていないと、キレイではなくなる。

旦那が土器(かわらけ)投げで的にめがける遊び、この姿、投げる前に土器の縁をかじって吹き出して投げるこの演出、志ん朝師匠が聴き手によりリアルに伝わるであろうと編み出したと聞いている。

土器の次に投げ出す小判、それを必死になって、止めようとする一八、ムダなことをという一八に旦那が

「ムダだ!生意気なことを言うな、ムダって言えばお前なんぞ連れてこういうとこに遊びに来ている方がよっぽどムダなんだ。人間なんてぇもんは、ムダなこと、もったいないことをしたい、それがために一生懸命、汗かいて稼ぐんじゃないか、おめぇに遊びが分かってたまるか」と一家言をはく。

的に向かって投げられた小判を拾いに谷底めがけ、大きな傘を抱えて飛び込んだ幇間一八、傘の柄を強く握り締めた指を口を使って解こうとする姿、

 

飛び降りた谷底から拾い集めた小判をもって、どうやって元いた場所に戻るか、一八は必死になり、着ている着物を脱ぎその布地を切り裂き、それをよって縄をこさえ、大きな竹に引っ掛けようとしている一八の様子、これもリアルな演出。

この咄は聴くだけでなく、映像の力を借りないと面白さが伝わってこない咄。

「愛宕山」志ん朝師匠の持ち味、十分に発揮された映像、久しぶりに堪能させていただきました。