ふんわりシフォン -49ページ目

FULL MOON 夜を駆ける 50

エピローグ




開け放した窓から見上げる月は、白々とした光を投げかけて不思議に明るく、木々や家に陰を作っている。
その光でよく見知っているはずの世界が、まるで知らない場所のように見えて心細いという思いがわく。


「おかあさん」


月の光の明るい窓辺から、子供の声に気づいて顔を向けると、小さな娘が私をじいっと見つめていた。



「もう ねるじかん ですよ」

「そうねえ。寝るのはあなたでしょうユエ」

ふっくらした頬に触ると、くすくすと笑いが起きる。暖かくて柔らかな頬は、恐ろしいことなど何ひとつ知らないで、ぺこりとえくぼを刻む。

伸ばしたその手を、ユエの肩にかけて連れだって寝台へとむかった。





「おかあさん、とらの おはなしをして」

布団に入るなり、ぱっちりと目を見開いて話をせがんでくる。添い寝しながら、髪をなでると、柔らかくてさらさらと流れ落ちる。


「どの虎」

「おともだちの のった とら」

村の外れに、まだ新しい小さなお堂があり、そこに実物よりも一回り小さな木彫りの像があった。

風に髪をなびかせた子供を背中に乗せて、駆けている虎の姿。


「あの虎は木彫りのおじいさんが、子供が人喰い虎に殺された年に作ったのよ」


「あの とらこわくないよ。わらっているもの。のっているこも たのしそう」



「あの虎はいい虎なの。悪い虎から子供を助けてくれたのよ」

「しんじゃったのに?」

「そうよ。悪い虎は死んでも使い童子として働かせるの」

「……こわいねぇ」

すりすりと剥き出しの腕をさする。その小さな仕種が愛らしくて、背中をさすりながら安心させるように、時折とんとんと叩く。

「あの虎は、前は人間だったのよ。人喰い虎を倒した呪いで虎になったのよ」

「かっこいいねぇ、つよいねぇ」


きらきらとした目で見上げてくる。

私の知っている彼女は、強がりで、泣き虫で、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
素直な娘の反応に口許が綻ぶ。


「あの虎は、今も私達を見守ってくれているの」

お堂に安置された像には、村人がお花や果物、菓子などを供えている。

家に何か喜ばしい出来事があった時や、家族を守ってもらいたい時に、村の人は虎の像まで来て、その像を撫でていく。

人の思いが重なり、触られている像はつやつやとした光沢を持っていく。

お堂を掃除しながら、そのことだけは疑わない。みな、虎になった少女が好きだったのだ。



時折、森からやって来る足跡がある。


お堂の回りをゆっくりと一周して、中に入って行く。あちこちから像を見て、足元の埃を払っていく。供えられた供物を眺めて、供えた人物の名前を見ていく。私も子供の誕生祝いに、両親と子供の名前を付けた山葡萄を供えた。



足跡を箒で掃きながら、きっと彼女は知っていると確信する。

産後の私のために、戸口にはホンサムが置かれていた。乾いた地面に、うっすらと足跡が残っていたから。



「ユエ、もし森で困ったことがあったら、大きな声で叫びなさい。きっと助けがやって来るわ」



私は幼い娘に、大切な名前を教えた。口にすることはない、宝物のように胸の中にある名前を。

愛おしむように唇に乗せる。



「あなたが、本当に困っていたなら、きっと助けてくれるわ。冗談やふざけて口にすることは、いけないわ。私も一度しか教えない。わかるわね」


私の眼差しに射抜かれたのか、娘は口をもぐもぐさせて、声に出さずに名前を繰り返していた。



「ひみつのことばだね」

猫とわたし

我が家の猫はストーカーだ。



わたしが台所に立てば、流しで水を飲み、わたしが洗濯をしに脱衣所にいけば、着いて来てお風呂場で水を飲んでいる……



洗濯物を干そうと外に出るのを待って、着いてくる。


わたしが洗濯物を干すのを、じっとり観察しているのです。

しかも。

地べたで寝ていやがるのですよ!!


残念なことに、我が家の物干し場の地面は泥。タイルやら舗装やら砂利もない。


そこを目の前で、ごーろごーろ転がられて……

モサモサした毛には落ち葉やら、埃やらで…なんだかキラキラしていたり…




そして極めつけ。

『オレかわいいだろう?』

的なドヤ顔をしていやがるのですよ!




『今なら触らせてやってもイイんだぜ』

的な俺様な妄想まで聞こえてきます。




ちくしょー

お腹をさすさすすると、舞い上がる埃。そしてやっぱりドヤ顔で、肉球をもきゅもきゅとやりだす始末。










うぇえーーん

埃だらけでキタナイし、たまに臭いものの……

やっぱりカワイイ馬鹿猫です。

FULL MOON 夜を駆ける 49

『それじゃ、いくね』

うんうんとうなづくソウニャは、あたしの後についてくる。

あたしの家は村はずれで、すぐに畑を抜けて森になってしまう。

シュウメイはあたしの隣で、村の境界までついて来てくれた。




「シュウメイの故郷は、ここだから。これから、何処に行ったとしても、生まれ育ったのは、ここだから」



『…忘れない』

「あたしも」




前を向いて歩きだそうとしたあたしの耳に、藪や木の上からも声が降ってくる。


「シュウーメーイ」

「おねーちゃーん」

どこで知ったのか、ハンが村じゅうの子供を連れてそこにいた。

隠れていた子供達は声を限りに叫んでいる。

ハンは何度も何度もあたしの名前を呼んで、それ以外には何も言えないまま、掻きむしるように服の胸をつかんでいた。

声は涙混じりで喉を詰まらせ、口から洩れる言葉が意味もない嗚咽に変わっていく。

あたしも胸が詰まって言葉は声にならない。いつでも泣けそうなほど潤んでいた目からまた、涙がこぼれて消えていった。

あたしが虎にならなかったら、この村にずっといたならどうなっていただろう。
ハンや他の誰かと結婚したかもしれない。



「いいのか、シュウメイ」


別れを告げないことを父が聞いてくる。


『……声が出ないよ……』

あたしは手のかわりにしっぽを振った。ぶんとしなるようにしっぽが揺れる。


そして後は振り返らずに歩き出した。