ふんわりシフォン -198ページ目

FULL MOON 32

目に見える変化はない。ただ空気に溶けるショウノウの香りが強くなる。

タイマーをセットしたようなものだ。呼吸するように楠の木は菌を取り込み死滅させるために動いてくれる。

緩やかに成長する木のように、変化は緩やかだ。




それでも絶え間なく続けてくれる。

そのことが、ありがたい。何百という年を数える木々には、ほんの僅かな時間でしかないだろう。





『ありがとうございました』


深々と頭を下げる。

『生まれ育った地の者が悲しむのは見たくないからのう』

楠の木は優しい。とても とても。




「帰ろうか、明け星」

「帰ったら、美味しいものを食べさせてもらうから」

「魚がいいかな」

「お刺身」

コンビニで売っているパンや猫缶では飽きただろう。それでも、いつもカリカリだから猫缶は贅沢なんだけど。

「了解

……付き合わせてゴメンな、明け星」

ぴくりと眉毛が反応する。

「この仕事は誰にだって出来ることじゃない。朔也しか出来ないことだよ。朔也が、やるって決めたら、あたしは反対しない。……よほど命に別状がないかぎり……何かあったら守ってあげるよ」

「へへっ ありがとな。猫に守ってもらうのも、いいかもな」



鼻の奥がつんとする。

明け星がいてくれて良かった。そばにいてくれて…良かった…





さあっと晴れた空から、雨粒が落ちてきた。

噴水から飛沫が飛び散るように、一瞬だけ雨の幕が下りる。

狐の嫁入りだ…



ざあっと幕が開くと、金の髪をなびかせた女性が立っていた。水のマスターだ。

「Hurry up!」

ぐいっと腕を掴んで、連れて行こうとする。

「は…何、何なんだ」

腕からは、酷い苛立ちが立ち昇っている。

「せっ…説明してよ」

『顔を貸せと言っている』

言葉が切り替わる。触手が伸びて結び付いたかのような…ざらりとした口調だ。

砂浜

きらきらと

さらさらと

音をたてる

足元の星の砂浜



言葉に詰まりながら歩く

話したいことは

小さなことばかりで

興味を引くのかすら

分からない



小さな星を

繋ぐように

きらきらした言葉が

こぼれたら

気詰まりにはならないのにね




きらきらと

さらさらと

駆け寄って

寄り添えたら

呆気ないくらい

簡単に

言葉がこぼれる

FULL MOON 31

歩き始めた基点には大楠がある。俺をここに呼んだ大楠だ。

ここで始まりは終わりになる。



『只今、戻りました』

『ようやってくれた』



淡い光が浮かび上がっている。楠の木を繋ぐように包囲網が出来上がった。





楠の木が、どれだけ頑張ってくれたら菌に対して有効な成分が発生するのか分からない。

だからとか

でもじゃなくて

何もしないより、いい






俺に出来ること

それを実行に移すことになる。




『このために呼んだんですか』

『そうじゃよ』

もしかしたら、俺はまったく違う方法をとったかもしれない。

こんなギリギリな状況で…俺を待ってくれた。気づかない可能性だってあった。
信頼という言葉があるなら…大楠は俺を信頼してくれた。全部任せてくれた。

そして見つけた答えは同じだった。




樫の棒から、地面を伝い、地中のネットワークを伝って気持ちが流れていく。




『この囲みから菌を逃さずに死滅させて』




さわさわと葉がさざめく。見えない菌と、楠の木から放たれた見えない成分が戦いを始める。

楠の木から抽出される成分は、ショウノウ。防虫剤に使われる。最近でこそ科学合成しているけれど、昔はいい輸出品だったそうだ。強心剤にもなるし、肌から吸収した場合は麻酔効果もある。




お手並み拝見