日本語で「かく」と言うとき、例えば一太郎の変換候補は133出てくる。
 現代語で使う動詞に限定してgoo辞書から引用すると、

【欠く/×闕く】4
 「茶碗のふちを—・く」「氷を—・く」
 「精彩を—・く表情」「きめ手を—・く」
 「水は人間に—・くことができない」「必要—・くべからざる条件」
 「義理を—・く」「勇気を—・く行為」

【×舁く】2
 「駕籠 (かご) を—・く」
 「こんなものを餌 (ゑば) にして、—・かれるやうな科 (とが) はしねえは」〈洒・二筋道〉

【書く/描く/▽画く】3
 (書く)「持ち物に名前を—・く」
 (書く)「日記を—・く」「本を—・く」
 (描く・画く)「眉を—・く」「グラフを—・く」

【掛く/懸く/▽構く】3
 「胡坐 (あぐら) をかく」
 「こしきには蜘蛛 (くも) の巣—・きて」〈万・八九二〉
 「馬にこそ絆 (ふもだし) —・くもの牛にこそ鼻縄著 (は) くれ」〈万・三八八六〉

【×掻く】13
 「かゆい所を—・く」
 「雪を—・く」「手で水を—・いて進む」
 「寝首を—・く」
 「氷を—・く」「かつおぶしを—・く」
 「からしを—・く」
 「苗代を—・く」
 *「赤っ恥を—・く」*「寝汗を—・く」「べそを—・く」*「高いびきを—・く」
 「欲を—・くな」
 「ただ少し—・き出でたる、大殿 (おとど) のうちひびきみちていみじきを」〈宇津保・俊蔭〉
 「梯 (はし) 立ての倉椅 (くらはし) 山を嶮 (さが) しみと岩—・きかねてわが手取らすも」〈記・下〉
 「目に髪のおほへるを—・きはやらで」〈枕・一五一〉
 「猫殿、ただ—・き給え」〈盛衰記・三三〉
 「『あなかま』と、手—・くものから」〈源・夕顔〉

 動詞の「かく」だけで大きくは5つに分かれ、小さくは25の意味に分かれている。全部の意味は覚えていなくても、経験的に覚えてゆくことになる。
 個人の発信が容易(たやす)くできる時代だが、まだ字幕つきや自動音声の動画の基礎的な誤字や読み間違いが多く目につき、配信者の弛(たゆ)まぬ編集努力が求められる。
 さて、「昔、旅人の姿をして、道中で、旅客の持ち物を盗み取ったどろぼう」(goo辞書)を胡麻の蝿(ごまのはえ)と言うが、「江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕籠かきに携わった人足」(Wikipedia)を雲助(くもすけ)と言い、「モグリの人足の中にはたかり・ぼったくり・窃盗を行なうタチの悪い無頼の者も多かった事から、蔑称として用いられるようになった」。
 落語に『抜け雀(ぬけすずめ)』があるが、相州は小田原宿に草臥(くたび)れて灼けて赤くなった黒羽二重(くろはぶたい)、紋付きの白色が汚れて黒くなった「赤羽二重の黒紋付き」を着た、年は25、6ででっぷり太った色白の男が現れる。誰一人相手にしない中、客引きしたのが、家内と二人だけの小さな旅籠(はたご)の亭主。
 客の男は、朝1升昼1升晩1升、日に3升の酒を飲んでは眠って7日になり、宿の家内は亭主に内金5両を催促させるが、客の男は1文無し。客の男は絵師で、10日ほど前に1文無しの経師屋(きょうじや)が形(かた)に拵(こしら)えた新しい衝立に目をつけて、そこに5羽の雀を描いて形とし、関東からの帰りに払うから衝立は売らないようにと言い残して去ってゆく。
 翌日、2階の戸を開けるとチュンチュンチュンチュン・・・・・・、鳥が飛び出してゆく。
「誰だ、鳥を閉め込んだのは、可哀相なことしやがって」
 と、衝立を見ると雀はいない。見ていると、チュンチュンチュンチュン、雀がさあーっと戻ってきて衝立に入る。
 衝立から抜けていっては帰ってくる雀は、小田原中の評判となり、客は押すな押すなの大盛況。
 5、6日経った頃、60を3つ4つ越した人品の良いご老人が供を連れてやって来る。抜ける雀を見て、心がないから止まり木が描けない、止まり木がないからやがて落ちて死ぬと言い、鳥籠を描いて去る。
 雀が籠に入ってまた抜け出すと言う評判が高くなって、小田原の城主・大久保加賀守もご覧になって2千両で買い取ると言うが、絵師との約束で売るに売られぬ亭主は、絵師の立ち寄るのを首を長くして待つ。
 やがて、絵師は仙台平(せんだいひら)の袴に黒羽二重と言う立派な出で立ちで旅籠に帰ってくる。亭主からその後の経緯(いきさつ)を聞き、鳥籠を描いた老人は我が父であると言い、2階へ上がり衝立を見て頭を下げる。亭主は褒めそやすが、絵師は自分のことを不孝者だと嘆く。亭主が訳を尋ねると、「親を駕籠舁きにした」からだと言う。
 抜け雀の落ちは駄洒落で、地口(じぐち)落ちと言うもの。古(いにしえ)から和歌に掛詞があるように、48音と使用音が少なく必然的に同音異義語の多い日本語の文化でもある。
 抜け雀の場合、名詞と動詞が同音異義語となっており、「かごをかく」は籠を描くか駕籠を舁くかの2つあり、文章で書くより話すほうが手間は掛からないが、話すときには説明読みと言うのがあって、例えば私立(しりつ)など「わたくしりつ」と読んで市立(しりつ)「いちりつ」ではないと相手に正しく伝わるように手間を掛けることもある。

教授の話-632』(2024年05月16日)
<田中教授は、縄文の火焔土器は水紋土器であると言う。川のせせらぎや急流、ときとして氾濫、必要不可欠な水の織りなす文様を土器に定着させる。形成された暴々しい波紋を見るとき、後世の北斎の波濤に引き継がれているのを容易に察知する>

 Wikipediaによれば、現在津軽半島の大平山元(おおだいやまもと)遺跡から縄文草創期の1万6500年前の土器が出土している。この最古の土器に縄文は無いが、縄文土器に分類されている。
「縄文土器は大森貝塚を発掘したモースによって見出され、英文報告書で cord marked pottery(索文(索紋)土器)とされた。しかし貝塚土器など様々に呼ばれ、結局、縄目文様という発想から命名された「縄文式土器」の用語が定着した。
 1975年(昭和50年)、佐原真は土器の名称に『式』を使うことの不合理を説き、『縄文土器』の名称を使うことを提唱し、以後、一般化した」
 石器時代に土器を制作していることにまず驚くが、縄文中期(約5500年前)になると火焔型土器が現れ、その高い芸術性に腰を抜かすほどである。

「三内丸山遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物、高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている」
「遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる」(Wikipedia)

 青森市大字三内字丸山にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡の居住者をブッディで調べると、1,354人となる。
 歴史人口学者の鬼頭宏(きとうひろし)上智大学教授によると、縄文人の人口のピークは26万人であり、当時の技術をフルに使って増やせるところまで増やしたギリギリの人口だと言う。
 三内丸山遺跡に大きな六本柱建物が復元されているが、柱穴の間隔、幅、深さが全て統一されており、当時高度な測量及び施工技術があったことが分かる。夏至線に向かって建てられており、太陽信仰が窺えると言う。

 縄文土器の制作に轆轤(ろくろ)は使われておらず、底の上に縄状に伸ばした粘土を何本も重ねて器を作る。表面の模様は、紐状に伸ばした粘土を貼り付け、細い竹を割った竹管で押さえつけて太さを均一にして、粘土を欠いたり、掻いたりしながら、描いてゆく。
 そもそも縄文土器の模様は縄文ではなく水紋・波紋であり、火焔型土器にある鋸歯状突起や鶏頭冠は、火焔ではなく波を形象化したものである。

 632段の原罪繋がりで付け足すと、人の性行為は、性器(せいき)を刺激するものではなく、生気(せいき・プラーナ)を循環させるものでなくてはならない。

「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されている列品番号J-39036の土器制作者
・無意識レベルのカルマー9(神的レベル)
・意識の進化段階ー5471.8
・Y染色体ハプログループD1a2a
・幽体年齢ー73歳
・五行類型論の体型:10△ー5▽型

 Wikipedia『火焔型土器』の写真に用いられた土器の制作者を調べる。
 極めて高い進化段階であり、これで腰を抜かすほどの高い芸術性も納得する。

葛飾北斎
・無意識レベルのカルマ
 1760年10月31日(0歳)ー9(神的レベル)
 1848年9月17日(87歳)ー9(人間レベル)
・絵画の才能
 1849年5月10日ー9(神的レベル)
・独り善がりー5(動物レベル)
・向上心ー9(人間レベル)
・意識の進化段階ー5641.8
・モナドの存在位置ー同上
・精神年齢(満88歳)ー105歳 →IQ119(平均の上)
・Y染色体ハプログループO2
・幽体年齢
 1760年10月31日ー74歳
 1849年5月10日ー81歳
・五行類型論の体型:10△ー5▽型

 『富嶽三十六景神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』の作者葛飾北斎(かつしかほくさい)を調べる。
 上述の土器制作者より、進化段階が更に上ではあるが近いこともあり、同一の魂が進化したのではないかと思い、五行類型論の体型や幽体年齢も調べる。

「葛飾北斎(1760年10月31日ー1849年5月10日・浮世絵師)に転生したのは『伝馬高出土』として東京国立博物館に所蔵されている列品番号J-39036の土器制作者である」
×「葛飾北斎(1760年10月31日ー1849年5月10日・浮世絵師)に転生したのは『伝馬高出土』として東京国立博物館に所蔵されている列品番号J-39036の土器制作者ではない」

 土器と浮世絵の作者は同一の魂だった。