「もう、身体がついていききらん」という言葉に胸を衝かれたのです。

 宮崎県の椎葉村を特集した番組を見ていました。山奥の村の生活のあれこれが紹介される中で、良質の蜂蜜を村で一番多く出荷し続けてきた老爺が登場しました。正に老爺です。最初に画面に姿を見せた時には90歳。(私の父と同い年です)でも、しっかりした足取りでミツバチの巣箱を設置している場所まで歩いていらっしゃいました。春のいつもの頃になっても、まだミツバチたちが巣箱で活動し始めていないことに戸惑っていらしたけれど、じきに例年のようにミツバチたちが蜜を集め始めて一安心。そしてたっぷり蓄えられた蜜を収穫するのですけど、全部を取るんじゃないのです。かなりの蜂蜜が巣箱に残されていました。「全部取ったらいかんじゃろうからね」と。手袋も何もつけずに作業されておられました。毎年繰り返して数十年、お爺さんはミツバチと触れ合いながら作業を続けてこられたのですね。巣箱の傍でにっこりされているお顔の色艶が良くて、あぁ、90歳でも元気な方は本当に元気なんだよなぁ、と感心して見ていたのです。

 ところが番組の最後のほうで登場された時に、お爺さんが冒頭のように仰ったのでした。「もう蜂蜜は出さん(出荷しない)。身体がついていききらんから」と。どんなに元気でいらした方でも、やはりガクンと衰弱される時期が訪れるのですね。これは本当に人それぞれで、70代後半でそうなる人も居れば、百歳に達しても矍鑠とされている人もあり。でも遅かれ早かれ誰にでも、その命の終わりが近いことを告げる衰弱はやって来ます。それを免れる人はいない。「もう蜂蜜は出さん」と仰った時のお爺さんのお顔には、確かに衰弱が表れていました。毎日毎日顔を合わせているなら反って気付きにくいかもしれませんが、月日の流れをテレビの1時間番組の初め頃と終わり頃に圧縮して見せられると、お元気でいらした様子との明らかな違いに感じ入るものが有ります。

 父も昨年で90歳になりました。弟と同居している父に2週間に一度は会いに行きますが、やはり最近は弱っているな、と感じます。でも、ぼちぼち家庭菜園も続けていて、この冬は大根を収穫できたようです。先日父から大根を貰いました。変な形に育ったものも結構有ったようですが、私にくれた大根はスーパーに並んでてもおかしくないようなもので。しかもこの寒い時期なのに、とてもきれいに水洗いされていて葉もシャキッとしていました。(勿論父が冷たい水で丁寧に洗ったのです)「葉っぱにも栄養が有るから、食べなさいよ」と。

 「昨日まで普通に過ごしてたのに、朝、起きてこないからどうしたのかと思ったら亡くなっていて・・・」という最期を迎えられる方がいますね。父もそのように逝けたら、と不孝娘の私は願っていますが、誕生も臨終も人間の浅はかな思惑を超えたものですし。

 クリスマスが近付くとやはり聴きたくなる「クリスマスイブ」 今年も聴きましたが、パッヘルベルのカノンを山下達郎が本当に上手くアレンジして達郎節の名曲に仕上げているなぁ、と毎年感心します。

 芸人の嘉門達夫がこの曲を替え歌して、「きっと君は関西人、間違いなく関西人。サイデンナー、ソーデンナー」と歌っていましたね。嘉門達夫の替え歌シリーズには随分笑わせられたものです。もうかなり昔のことですが、職場の忘年会絡みだったかしら、30歳前後の男性がカラオケで字幕映像を見ずに自信満々で歌っていました。「きっと君は来ない、間違いなく来ない」と。笑いを堪えるのにちょっと苦労。「間違いなく来ない」と確信してどうするのよ・・・ 本人はそれが正規の歌詞だと信じ込んでいたのでしょうけれど。

 それはそうと、パッヘルベルが「カノンとジーグ」としてあの曲を創ってくれて本当に良かった、と思います。以前こんな話を聞きました。もう何もかも嫌になって自殺しようと思い、どこでどうやって死のうかと過ごしていた中年男性が(テレビだったかラジオだったか私には判りませんが)この曲が流れていたのを耳にして聴き入ってしまい、「なんと美しい曲なんだろう!」と感動したそうです。そして「こんなに美しい曲が有ることを自分は今まで知らなかった。もう少し生きてみようか」と思い直すに至ったのだと。室内楽だったのか、オーケストラ用に編曲されたものだったのか。いずれにせよきちんと演奏されたあの曲には、確かにそれだけの力が有りますね。パッヘルベルがどういう人かとか、「カノン」がどういう形式の曲を指すのかといった類の予備知識など全く必要ありません。演奏された曲を実際に耳にして「あぁ、美しい」と虚心に感動することの絶大な力。

 

 意図せずに、ナザレのイエスの誕生を祝う日にピッタリの記事になりました。ローマ帝国の国教として小難しく体系づけられた教義じゃなく、直接の弟子たちによってそのままに語り伝えられたイエスの言葉がどれほど多くの人々の心を救い支えたか、に改めて思いを致します。実際に彼が生まれた日は不明ですが、北半球で陽射しが再び強くなり始める頃を誕生日としてお祝いするのは実に尤もなことです。

 

 

 散歩コースの一つになっている道に、お地蔵様たちが集中している所があります。その道は元々江戸時代からのれっきとした街道で、古くから有る道とはいえ、自動車が通る現代の感覚ではかなり細くてくねくねしています。私が高校生の頃は、それが江戸時代からの古い道だとは知らなくて、その道の入り口になっている交差点を出入りする車が非常に多いことが不思議でした。どうしてあんな細い道に車が次々に入っていくのかしら、と訝しく思っていたのです。自動車の通行量が多いのも当然で、20年ほど前にバイパス道路が大体並行して開設されるまでは、この地域から○○へ至る唯一の道路だったのでした。

 ここまででもうお気付きでしょうが、お地蔵様は交通事故で亡くなった方(おそらく子供さん)の供養と交通安全の願いを込めて建立されたものです。その場所は見通しの悪いカーブになっていて、勿論道幅は狭いままなので、自動車が普及し始めてからは事故が頻発しただろうことは容易に想像できます。江戸時代なら皆歩いていたので、細い道でも問題なかったでしょう。そして古くからの道なら、両脇に住居が並んでいたでしょうから、交通量が増えてもおいそれと幅を拡張するのも難しかっただろうな、と。でもそれで被害を被るのは小さな子供達、というのが、なんともやり切れません。

 拙著「まだ、間に合うのなら」でも少し書いていますが、日本の道路行政は完全に自動車優先ですね。住宅街の中を通る道でも、車同士がすれ違えることが大事にされ、車道スペースを広く確保して、子供達が登下校で歩く路側帯が細くされている有り様。電信柱が立っているところなど「どうやって人が歩くの?」状態のままにされてる箇所が数知れず。車で他人を死傷させた際の罰則が異様に軽いことやら、とにかくあれもこれも酷い。

 口から肛門に至る消化管の中は、「自分の外側」なんですね。とても長い管で、ぐるぐると回り込んで納められているからつい「体内」と思ってしまうけど、あれは通路でしかない。食物として摂取した異物(自分じゃないもの)が通過していく路。異物を粉砕(口)して、消毒(胃)して、自分の身体を形成するための材料を吸収(小腸)して、水気を抜いて残滓をまとめ(大腸)て、身体の外に排出(肛門)する。自分の身体を作るために、自分じゃないものを取り込む場所は「内」と「外」の交易所であって、「内」を護るための仕組みが是非とも必要。だから小腸が免疫の要なのも当然です。まぁ免疫は、「内と外」というより「自己と非自己」の問題として語られるようですが・・・

 消化吸収の一連の流れは確かに胴体の中で行われるけれど、しかし消化管の中はあくまでも私の体の外。それは誰であれ、素直に注意深く考えれば得られる見識だとはいっても、その「素直に注意深く」がなかなか難しい。「口から何を食べようと、身体を通って尻から糞として出るだけのこと。何かを食べたからその人が穢れる(罪びとになる)などと言うことは無い。寧ろ口から出すもの、噓や誹謗中傷がその人を穢す(罪を犯す)ことになる」とナザレのイエスは2000年前に言ったとのこと。何を食べるかは、外側の行為。どんな発言をするかは、内側の行為。

 先日東京足立区で起きたひき逃げは、続報を聴くたびに何とも気が滅入るばかりです。ナンバープレートが付いてなく明らかに試乗車じゃないのに勝手に店から乗り逃げしておいて、「盗んだつもりはない」 通報を受けた警察に見つかって追いかけられると、無茶苦茶な運転をして人々をひく、他の車に衝突する、車が動けなくなると降りて走って逃げる。「逃げる」ということは、自分が拙いことをしたという意識がきちんと有ると思うのだけど、精神科への通院歴が有るから「責任能力」の有無を判定する必要があるとして、顔も名も非公表。今までも何度となくとんでもない事件が起きていますが、偶然の巡り合わせで巻き込まれ、死傷するに至った方々が気の毒でなりません。

 刑法39条はまた別の機会で考えるとして、今日は警察に追われた車両が起こした事故に巻き込まれる問題について書きます。信号無視やスピード違反をした車が素直に停止せず逃げようとすれば、警察は何としてでも確保を図って追いかけますね。逃げようとした車が無茶な運転で事故を起こすことも屡々。自損事故で済めばマシですが往々にして巻き添えになる人が生じてしまう。運悪く巻き添えになって死傷する羽目になった人は堪ったものじゃありません。「警察の追跡の仕方に問題が有ったのでは?」と言われたりもします。配慮に欠ける追い方が実際に有ったかもしれない。でも警察は追わざるを得ないのですよね。

 目の前で信号無視した車に「停まりなさい」と命じたのに無視されて逃げられたのを見逃していたら、法執行機関としての体を成さない。その社会の法律を守らせる強制力が無いなら、法律無視のならず者がはびこる世の中になってしまう。「たかが信号無視じゃないか、そこまでして追いかけなくても」とは言えない。それは確かです。確かにそうなのだけど、パトカーから逃れようとして暴走した車のせいで大怪我したり、亡くなった人の家族は思ったりします。信号無視くらいをそこまで追いかけなくても・・・、と。悪いのは、信号無視した運転手、パトカーから何とか逃れようとした運転手、なのです。間違いなくそうなのだけど、思ってしまったりします。「そこまでして追いかけなくても」と。何とももやもやするところです。