散歩コースの一つになっている道に、お地蔵様たちが集中している所があります。その道は元々江戸時代からのれっきとした街道で、古くから有る道とはいえ、自動車が通る現代の感覚ではかなり細くてくねくねしています。私が高校生の頃は、それが江戸時代からの古い道だとは知らなくて、その道の入り口になっている交差点を出入りする車が非常に多いことが不思議でした。どうしてあんな細い道に車が次々に入っていくのかしら、と訝しく思っていたのです。自動車の通行量が多いのも当然で、20年ほど前にバイパス道路が大体並行して開設されるまでは、この地域から○○へ至る唯一の道路だったのでした。

 ここまででもうお気付きでしょうが、お地蔵様は交通事故で亡くなった方(おそらく子供さん)の供養と交通安全の願いを込めて建立されたものです。その場所は見通しの悪いカーブになっていて、勿論道幅は狭いままなので、自動車が普及し始めてからは事故が頻発しただろうことは容易に想像できます。江戸時代なら皆歩いていたので、細い道でも問題なかったでしょう。そして古くからの道なら、両脇に住居が並んでいたでしょうから、交通量が増えてもおいそれと幅を拡張するのも難しかっただろうな、と。でもそれで被害を被るのは小さな子供達、というのが、なんともやり切れません。

 拙著「まだ、間に合うのなら」でも少し書いていますが、日本の道路行政は完全に自動車優先ですね。住宅街の中を通る道でも、車同士がすれ違えることが大事にされ、車道スペースを広く確保して、子供達が登下校で歩く路側帯が細くされている有り様。電信柱が立っているところなど「どうやって人が歩くの?」状態のままにされてる箇所が数知れず。車で他人を死傷させた際の罰則が異様に軽いことやら、とにかくあれもこれも酷い。

 口から肛門に至る消化管の中は、「自分の外側」なんですね。とても長い管で、ぐるぐると回り込んで納められているからつい「体内」と思ってしまうけど、あれは通路でしかない。食物として摂取した異物(自分じゃないもの)が通過していく路。異物を粉砕(口)して、消毒(胃)して、自分の身体を形成するための材料を吸収(小腸)して、水気を抜いて残滓をまとめ(大腸)て、身体の外に排出(肛門)する。自分の身体を作るために、自分じゃないものを取り込む場所は「内」と「外」の交易所であって、「内」を護るための仕組みが是非とも必要。だから小腸が免疫の要なのも当然です。まぁ免疫は、「内と外」というより「自己と非自己」の問題として語られるようですが・・・

 消化吸収の一連の流れは確かに胴体の中で行われるけれど、しかし消化管の中はあくまでも私の体の外。それは誰であれ、素直に注意深く考えれば得られる見識だとはいっても、その「素直に注意深く」がなかなか難しい。「口から何を食べようと、身体を通って尻から糞として出るだけのこと。何かを食べたからその人が穢れる(罪びとになる)などと言うことは無い。寧ろ口から出すもの、噓や誹謗中傷がその人を穢す(罪を犯す)ことになる」とナザレのイエスは2000年前に言ったとのこと。何を食べるかは、外側の行為。どんな発言をするかは、内側の行為。

 先日東京足立区で起きたひき逃げは、続報を聴くたびに何とも気が滅入るばかりです。ナンバープレートが付いてなく明らかに試乗車じゃないのに勝手に店から乗り逃げしておいて、「盗んだつもりはない」 通報を受けた警察に見つかって追いかけられると、無茶苦茶な運転をして人々をひく、他の車に衝突する、車が動けなくなると降りて走って逃げる。「逃げる」ということは、自分が拙いことをしたという意識がきちんと有ると思うのだけど、精神科への通院歴が有るから「責任能力」の有無を判定する必要があるとして、顔も名も非公表。今までも何度となくとんでもない事件が起きていますが、偶然の巡り合わせで巻き込まれ、死傷するに至った方々が気の毒でなりません。

 刑法39条はまた別の機会で考えるとして、今日は警察に追われた車両が起こした事故に巻き込まれる問題について書きます。信号無視やスピード違反をした車が素直に停止せず逃げようとすれば、警察は何としてでも確保を図って追いかけますね。逃げようとした車が無茶な運転で事故を起こすことも屡々。自損事故で済めばマシですが往々にして巻き添えになる人が生じてしまう。運悪く巻き添えになって死傷する羽目になった人は堪ったものじゃありません。「警察の追跡の仕方に問題が有ったのでは?」と言われたりもします。配慮に欠ける追い方が実際に有ったかもしれない。でも警察は追わざるを得ないのですよね。

 目の前で信号無視した車に「停まりなさい」と命じたのに無視されて逃げられたのを見逃していたら、法執行機関としての体を成さない。その社会の法律を守らせる強制力が無いなら、法律無視のならず者がはびこる世の中になってしまう。「たかが信号無視じゃないか、そこまでして追いかけなくても」とは言えない。それは確かです。確かにそうなのだけど、パトカーから逃れようとして暴走した車のせいで大怪我したり、亡くなった人の家族は思ったりします。信号無視くらいをそこまで追いかけなくても・・・、と。悪いのは、信号無視した運転手、パトカーから何とか逃れようとした運転手、なのです。間違いなくそうなのだけど、思ってしまったりします。「そこまでして追いかけなくても」と。何とももやもやするところです。

 

 ベニシジミが花に停まっている画像をX(ツイッター)に上げている方がいて、思い出しました。小学生の頃、草が茂っている場所でぼんやりしてたら、目の前に突然小さな青紫のものが飛び上がってきてビックリしたのです。それは、羽をひらひらさせて飛び去って行った蝶でした。ルリシジミだったようです。青紫色のものが目の前にあったのに気付かないでいたのかどうか、とにかくどうしてあんなに不意打ちのように見えてきたのかが不思議で、それからしばらくの間、蝶を見かけたら注意して様子を観察するようになったのでした。そして判ったのです。ルリシジミが地味な花に地味な灰色の面を外側にして停まっていたら、かなり気付きにくいけれど、蝶が飛び始めて羽をひらひらさせたら、羽の片面(花に停まっている時は内側になる)の濃い青紫色が急に視界に入ってきて驚いたんだ、という次第でした。

 観察してみると、アゲハ蝶では羽の表裏にそれほどの違いを感じなかったけれど、シジミ蝶は殆んどが表裏にはっきりした違いがありました。ベニシジミは花に停まっている時はベージュ色で目立たないけど、飛び始めると鮮やかな赤茶色が見えます。突然視界に入った小さな青紫色にびっくりしたから、いろんな蝶を注意して見るようになった。「驚いて心が動くことで、探求が始まる」正にそうです。以前の記事でも書きましたが、しっかりした図鑑に「オオイヌノフグリの開花は一日のみ」と説明してあって、「いやそれ違うじゃん」と思った経験も有り(2021年2月2日と2022年9月13日の記事を参照されたし)、私はとにかく「実際の事象を注意深く見なきゃダメ」という意識は子供の頃から強かったのです。 

 毎年恒例のノーベル物理学賞発表も昨日あって、思い出したこともあります。18歳の頃は量子力学の祖と言われる人達の回想録や伝記を読んで、私は感動していました。どれほど奇妙に思えても、実験する度にそうであって見間違い勘違いではないのなら、その奇妙な事象を的確に数式で記述しなければならない。研究者たちが苦闘して工夫してそれをきちんと数式で記述できるようにした辺りに、とても感動したのです。しかし実のところ、私は量子力学そのものは理解できていません。私には相対性理論の理解が限界のようです。もっともつい最近、大学で量子力学を教えている人が学生に向かって「これから量子力学を学ぶわけですが、安心してください。ちっとも判らない、ということが判りますから。だって私自身がそうなのです」と語っていて、ちょっと嬉しくなりました。勿論その人は、しっかり量子力学を理解してるでしょう。しかし未だ解明されてない領域の先へ先へと手探りで進んで行く人は、「何でも判っている」という態度は決して取りません。それを嬉しく感じました。私は科学が大好きですが、科学のふりをした権威主義が大嫌いなのです。

 

 (モルフォ蝶はどうなのかしらと思って確認したら、シジミ蝶と同様でした。あの素晴らしく輝く青い羽の反対側はとても地味。羽を立ててじっと停まっている時は、全然目立ちませんね)

 先日、シリアの暫定大統領シャラア氏とシリア駐留米軍の司令官だったペトレイアス氏との会談の様子が報じられていました。かつて敵として対峙していた両者ですが、今や一方はシリアの最高責任者、片や退役した高級将校という立場での再会だったわけです。そして私は、その会談を伝えるニュース映像を見て、二人の笑顔にとても興味を持ったのです。

 ペトレイアス氏の笑顔は非常に友好的でしたが、「まあ米軍の高級将校らしい、そつのないもの」とも言えます。シャラア氏の笑みも勿論友好的でしたが、何というか、社交辞令のそれを超えて、懐かしい友に再会できた嬉しさで心の底から湧いて出た笑みのように感じられたのです。そう感じながら、「えっ、でもシャラア氏は米軍から敵認定されてた人物だよね」と私はちょっと戸惑ったのでした。

 それで少し考えてみたのです。シリアの内戦中はそれこそ様々な立場の勢力が、それぞれに自分たちの利益を求めて争っていたんですよね。彼らは時に手を組み、時に裏切りで混沌としていたはずです。米軍も、どの勢力にどう対処するかの見極めが大変だったことでしょう。そしてそういう様々な勢力との戦闘、交渉、駆け引きを繰り返す中で、相手側の首領のそれぞれについてはっきり見えてくるものが有りますね。あいつは頭が良くなく非常に暴力的、あいつは強欲だがマヌケ、あいつは腹黒くて全く信用できない等々。単なる威張りたがり屋、目立ちたがり屋では、内戦時の派閥の棟梁は長く務まらない。ロボットの集団ならぬ、血気盛んな人間たちをどう纏めて率いていくか。諸勢力の首領の間でも、総合的な人間力で優れた人物への支持が広がるのが自然な成り行きのはずです。

 今、シリアの暫定大統領の地位に就いているシャラア氏は、おそらくペトレイアス氏からも一目置かれていたのでしょう。利害が複雑に絡まり油断も隙もならぬ混沌とした状況の中で、何か或る共通の目的達成のために、勿論限定的とはいえ、シャラア氏は米軍が信頼して組めた相手だったのだろうと思います。誰がいつ裏切るか油断できない状況で、自分の部下たちをきちんと統率掌握して動かす能力を持ち、合意に沿った行動で成果を上げてくれた相手を、それは当然評価するし、敬意を持ちますよね。シャラア氏のほうも、米軍の司令官が自分に信を置き、自分の力量を認めてくれた、と思えば「戦友」に近い感慨を持ってもおかしくはないでしょう。 

 ここまで書いてきて、アフガニスタンのマスウド将軍が暗殺されたのは、本当に残念なことだったと思います。2001年に彼が暗殺されていなかったら、アフガニスタンは現在のような悲惨な状況にはなっていなかったと思わざるを得ません。シリアが安定化するためにもシャラア氏は暗殺されませんように、と願います。