カエサル日記京都編 -31ページ目

訂正


昨日更新した記事についてで誤りが一つありました。

シーア派が神と崇めているのはフサインの父アリーでした。

大きな間違いでした。すみませんでした。

まぁアリーを崇拝するのもフサインを崇拝するのもイスラームの教えに間違ってるとは思います。

過激シーア派のフサインのある評価について

フサインとは、フサイン=イブン=アリーのことです。


フサインは、シーア派第三代イマームです。


フサインは、第四代カリフのアリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれ第二子です。


フサインの父アリーは、ウマイヤ家出身の第三代カリフのウスマーンが殺された後に即位したカリフでした。

ウスマーンの血の復讐を叫んでいたムアーウィヤとカリフのアリーは対立していました。


660年にムアーウィヤがカリフを宣言し、661年にカリフのアリーは暗殺されてしまい、これを機にムアーウィヤは、ダマスクスにウマイヤ朝を開きました。


一方フサインは、メディナに隠退していた兄ハサンの死で、シーア派はフサインをシーア派の盟主と仰ぐようになりました。


フサインは、680年ムアーウィヤが死去した後、カリフ位を継承したヤジードを認めずに、シーア派の招きに応じてクーファで反旗を翻すためにクーファに向かいました。


しかし、フサイン達は、クーファ近郊のカルバラでウマイヤ朝の政府軍に包囲されて、この軍と戦って戦死しました。

この事件は、グレゴリウス歴680年10月10日またはヒジュラ歴では61年ムハッラム10日に起きました。
これをカルバラーの悲劇(カルバラーの戦い)と言います。

彼の死でシーア派の政治的運動は、頓挫して、以後シーア派の運動は宗教的色彩を強めていきました。


フサインの殉教は、以後のシーア派の精神的拠り所となっていきました。


サファヴィー朝以後イランのシーア派ムスリム(信者)達は、フサインの死を悼んで、毎年ムハッラム月の最初の10日間、殉難祭を行い、最終日の10日目に祭は頂点に達っします。


しかし、中央公論社世界の歴史シリーズイスラームの巻き(多分6巻)にて、この祭を伝える文章に驚くべき考えが書いてあるのを読みました。


狂信的な信者がフサインは神なりといいながら自らの身体を傷つけるそうです。

ここで僕が問題にしたいのは、フサインは神なりという言葉です。


イスラームの教えでは、アッラーの他に神はないはずです。

ムハンマドですら自らを神ではなく預言者としました。


シーア派信者には悪いですが、しかし、フサインを神と考えるのはまったくイスラームの教えに反した考えだと僕は思います。

皆さんはどのように思いますか?

後ウマイヤ朝の繁栄

イベリア半島で最大で、最長のイスラーム王朝で君臨した後ウマイヤ朝は、イベリア半島のイスラーム化に大きく貢献しました。


ウマイヤ朝の第10代カリフのヒシャームの孫アブド=アッラフマーン1世が、アッバース朝の追ってから逃れて、756年総督ユースフを破り、コルトバでアミールと宣言して、後ウマイヤ朝が始まりました。


アブド=アッラフマーン1世は、カリフではなくアミールと称し、後ウマイヤ朝がアッバース朝の比肩できず、そしてイスラーム国家は一つで、カリフも一人という伝統を重んじなければなりませんでした。

アブド=アッラフマーン1世は、ベルベル人の反乱やアッバース朝が裏で糸を引く反乱を鎮めたり、カール大帝とサラゴーサの領有を争ったりして、後ウマイヤ朝の基礎を築きました。


基礎を築いた後ウマイヤ朝が繁栄したのは、第8代アミールアブド=アッラフマーン3世の時代でした。


アブド=アッラフマーン1世が、基礎を築いた後もアラブ人とベルベル人の支配者同士の反目や、スペイン人改宗者や、土着のムスリムや、アラブ化したスペイン人のキリスト教徒等の不満は解消されていなく、後ウマイヤ朝の支配体制は不安定でした。


そこで、アブド=アッラフマーン3世はカリフを称して、領内の社会的統合を目指す政策を実施して、専制国家体制を完成させ、ファーティマ朝と北アフリカ領有を争い、マグリブ西部の大半を後ウマイヤ朝の支配下にしました。


他にもアブド=アッラフマーン3世は、ベルベル人やスラブ系の軍人奴隷サカーリバを軍隊の主力とし、軍隊制度を調えました。


また、この時代に経済的基盤の農業生産と工業生産の輸出を伸ばすのに、アラブの優れた灌漑技術を取り入れ、農地の拡大と農産物の量産が行われて、その集散地のコルトバやセビリャが繁栄を極めました。

中でもコルトバは、コンスタンティノープル、バグダードとともに中世世界三大都市の一つに成長し、人口50万人の大都市となりました。


アブド=アッラフマーン3世の死後、幼少の君主ヒシャーム2世をめぐる宮廷内の争いが起き、マンスールが権力を掌握し、対外戦争を行なったりしたが、マンスールの死後、国内緒勢力と集団間の反目から内戦へと突き進み、ベルベル系のハンムード家がカリフを位を襲い、カリフのヒシャーム3世がコルトバを追放されて、繁栄を誇った後ウマイヤ朝は滅びました。