近況。
うなぎを食べました。なんだか久しぶり。
それとデザートにメロンを食べました。どちらも華屋与兵衛で…。
そして腹を壊しました…何これ。
最近はええとボチボチ色々手を動かしたり頭を動かしたり。
体はあまり動かせていないので、目的地までは必ず歩くようにしたり。
ひばりから田無まで西東京市縦断エクサ。暑くてしぼみそうだった。途中ずっと体液蒸発の四字がチラチラ。
センパイというか友達というか、そういう微妙ないつもどういう関係性か悩む位置におられる方が、
たまーに遊びやメシに誘ってくれるのですが、
夏の予定を聞いたら「しごといそがしい」とか今まで聞いた事のない言葉を発したので、
「ワタクシ事と書いてシゴトなのですな?」と聞いたらどうやらゲームらしく、なるほど納得。
こういう人とエアコンの効いたメシ屋で昼から冷たい物でグデンとしていると元気が出るというか、
こんなんでいいのかパワーが出ていい。
グデンとしたら腹を壊したのだがな。
風邪でうなされてながら考えていた事のメモ。
・国粋主義の体の国酔主義。
・本来ピエロを映す媒体がピエロと化している茶番。
・喜劇を生み出すテレビの悲劇。Radio killed The Radio-Star, 好奇心はやはり猫を殺す。
・視聴率の温度。低温視聴率の事件と高温視聴率の戦争。
・ここ最近「鶏が先か、卵が先か」を使う人をよくみる。世紀またいでからこっち、何か多い気が。
某ラジヲスターの痴豚様が以前「鶏が先か、始祖鳥が先か…ん、それは始祖鳥」という絶品のボケをかましていたのを思い出す。立川流イリュージョン。
・ここ10億年ちょっと、動かない事、それがもっとも残酷で強烈なのだ。とモノリス。
これはクレイジーだ。
身近なモノで置き換えて考えて三田。
ナニ上ファンドとかの、ファンドって産業として具体的なイメージがつかめないんですが、
アニメファンドの事を思い浮かべたら何となくわかったような気がしました。
アニメ制作って本当に厳しいハードルがいくつもあって、
妥協半分で終われるなんて事すら中々ありえない世界なんですが、
その無茶っぷりは常に人間の生物としての限界と隣り合うんですよね。
よく、うまくいっている時は寝るのも惜しい(主に描く人)、とか言うんですが、
そういう限定した状況や人間に限らずとも、安眠するのは厳しかったり。
一番安定するのは常に全力で走り続けていられる人のみ。けど実際天才ばかりいるわけじゃない。
だから本当は産業として維持するためには、いくつもの画期的な発明が必要で、
それはリミテッドだったり中割りだったり、バンク、止メ、
もっと言えば制作ライン、グロス、協会便…。妥協と発明、困憊と打開。
宿命としては、そういう風に作られてはいるんだけど、
出力される作品は結果パッケージングされた商品だという事。(名言:芸術じゃないから)
マーケティングだとか統計だとか、そういう経済活動において、
商品の製造ラインと投資には何の関係も要らないので、
さながら生体発電機のようなね、そんな気がしますね。
経済活動に製造ラインは考慮する事項でしょ、と思われるかも知れませんが、
その考慮は「効率」と「コスト」であって、「工場長の木上さん」は関係ないわけですね。
「出来がいいから褒める」のはファンドの手先レベルの思考。
「やっぱりそこまでやるのか…と感慨する」のはファンの思考。
そういう諸々の構造もひっくるめて、経済活…金儲けのシステムに、
どがちゃかで捉えてうまくやっていく、のがファンドなんですね。
現実から捉えるとどうしても穿って見える。
狂発し、何かを育む。という日本流のものづくりものがたり。
今の日本は発狂できるほど深い所へ辿り着く事ができない。
情報の波が身を深めるのを妨げているから。
ならばいっそ波に乗り、行ける所まで行ってみる。
その先には海洋深層水が湧いている。それは深い所からやってくる。
あわれクラゲは深い水のミネラル多きを知り、やがてこの浅瀬までやってきた事を後悔する。
と思いきやそもそも、クラゲには後悔をする思考力はないのである。
解説:日本は状況を打破するためには発狂とも思える方法を採る事があるが、ただの無思考の覚悟とは違うということ。
最近の私のサッカー事情と肌感覚
何だか今の時期の日本人は怖いなと感じる。
ええと、自分はこういう人ですから街なかで堂々「早く日本が敗退してくれれば、
W杯が楽しめる」などと口にするわけだけれど、
別に青いユニフォームに日の丸ペイントしているでもない、一見普通の人が、
ちょっとピクっときているような気配を感じる。それどころか、
自分を知っている人ですら「聞かなかった事にするよ」的な風なのである。
んーと応援している人に水を挿しているのは確かで、申し訳ない事なのだけれど、
相手の気配が「そういうのやめてくれ」ではなく「怒るよ?」な感じなんが怖いのである。
「W杯が楽しめる」と言ったのは皮肉ではなく本心なわけだけれど、
「敗退」を軽々しく口にすると、なぁんだかイヤんな雰囲気なんである。
ここ最近、ナショナルチームの国際試合を観る機会が減った、ような気がする。
だいぶライトなサッカーファンなのでWOWOWで録画して観るとかそこまでの気合はないものの、
(やってりゃ観るよくらい)以前はBSなんかでも珠にやっていたものである。
…というような気がする。
BSでMLBをやるようになったり、民放がリーガとかのクラブチームの試合をやるようになって、
ロシア対アイルランドのような国際試合を見なくなったような気がします。
資本主義によってツマらなくされたような気がします。
そういう気がするもんだから、気がして、私は、この機会に「W杯を楽しみたい」なんて言うわけですが、
じゃあ彼らがW杯を観るモチベーションを支えているものは何なのだろうと思うわけです。
明らかな温度差を感じる。
初めてセンパイにウィンズへ連れていってもらった時にあった感覚。
昔、木村カズシのFKに憧れたりして、今、中村シュンスケのFKに感心して、
日の丸を背負わされてサッカーをやっている人達の本質は変わってないんだと直感するわけですが、
こういう節目の機会に露骨に、
あぁこの国は変わったなぁって。
悪いのは青く染まれない私なんですけどね。最後は皮肉も込めて本心。
無常観と茶の湯の温度。
このあいだ物語の設計に関する表現の話を少しだけできて、楽しかったので久々にこちら関係の思考へシフト。
要はコンテの話なんですけども。
久々に長くなりそうなのでちゃんとまとまるか不安だが、まずは醤油。
醤油の香りをかぐと自分の日本人的神経が活性化されるのがわかる気がする。
唐辛子の入った食べ物を食べると体温が上昇し、チョコレートを食べると血糖値が上昇するように、
実際に日本的な匂いや味を摂取すると、実際の体内の日本が膨らむのです。
人を作る素、風土と食べ物は、当たり前だけど体液の匂いにも思考の道程にも影響するので、
この時日本人的なモノの思考を深められたり、膨らんだり、進んだりするのですね。
そして日本的な無常観のお話でございます。(仏教的とか神道的とかは置いて置いて、略してオイトイテ)
無常観は方丈記で鴨長明さんが書いているように当時の日本人も持っていた「この醤油の大豆もアメリカ産かぁ、全く世知辛い世の中だよ」的な感覚。
余談だけれど、随筆はやっぱり無常観でつらつら綴るとウケルのはここ数百年のこの国のトレンドのようです。
そこに「どうせ震災が来るのだから家を飾っても意味がない」というようなヤサグレの無常観があって、今も昔も変わらないのねぇと笑ったが、
この日本の無常観は(ヤサグレなければ)自己犠牲や共感と言った日本的な考え方を生み出すのです。(カミカゼ特攻隊は…この際オイトイテ下さい。
自己犠牲や共感は、客観性の様式です。
そして茶の湯の温度。
はじめはぬるく、段々熱くなって、最後はあついお茶が出てくるという、信長さんが感心したというアレ。
これぞ導入の技術という事で、コンテに置き換えて考えていたのでござる。
善玉な無常観に基づいた客観性は、他者をもてなす作法を持って、共生の道を拓く事は、演出の基本のひとつと心得よ(利休)
思いっきり無理矢理うそぶい並べてみた(爆)、けども、おもてなしの作法はそのまま人に作品を見せる時の作法にはなりますよね。
貴族さんがフィンガーボールの水を飲む話、中国人が腹一杯食わせてもまだ余るくらいの料理を出すとか。
どれもそのまま演出として置き換えられますな。そもそもが同じ事か、そうかそうか。
それでさらに突っ込んで、茶の湯の温度で言い訳を与える自己犠牲というのはどうでしょうか。
「言い訳を与えてやる」と簡単に言うけども、うーむ「ツッコミ所を作ってやる」で近いのか。
今自分が想定していたのは、「奴はーとんでもないものを盗んでいきました…(それは)あなたの…」
「あなたの下着です」というアレ。
そう、何とも言いがたいあの有名な場面ですよ。
え、下着じゃないって?そうこれが言い訳になるんですよね。茶化さずにはおれなくなる。
ひとことで「宮さんはロマンチストだから~」と切るのは簡単なんですが、ロマンというよりは嗅覚で入れたんじゃないかと。
「セブンイレブンの袋を持っていても、変じゃない」という80年代CMコピーと一緒。
そのコピー自体が何だか変だよ?ってホラネ。
見ているこっちの身持ちが楽になるんですよね。「バカじゃないの!!…か、感動なんて、してないんだからねッ!!(赤面)」とまぁ和むワケですよ。
カリ城のはちょっと違う気もしてきたな…(w
以上無常観を軸に無理矢理色々考えてみました(もっとナショナリズムとかパトリオティズムの話に脱線するかと思った良かった)。
日本人ならお茶漬け、あけぼの、もののあわれ、ですが、
「もののあはれ」をどう書けばいいでしょうか。「憐れ?哀れ?アーレー?」。
ここに三つの温度ができました。ではどういう順番でお出ししましょうや。
きっと「アーレー」を生かすのが良い、と思う。
すごい脳の性格
自己に精神的負担をかけないように責任を論理的に外へ押し付ける脳の癖。
劇場型政治、とは言うけれど、消費のための装置にのせてしまったという失敗はあったと思う。
正確な尺度を持たない脳はよく時代を作ってしまう。
悪いのは与党!悪いのはテレビ!悪いのは馬鹿な国民!どうだろう。
どの脳もみな、負担を軽減するような論理を紡ぎだした歪みが、その屈折した具合が時代の色。
とテレビを見ていて思ったの(日記)。
しかし珠に凄い人がいる。
何と言うかもう、凄い褒めていない言い方で「この人スゴイな…」としか言い様がない人。
以前聞いた話を思い出して、思わず笑ってしまったのでちょっと聞いてもらいたい。
その人は仕事の合間にゴハンを食べていた。そこに知らない番号から電話がかかってきたらしい。
知らない人からかかってくる事はしばしばなので出る。
『あーもしもし、○○の○○という者ですが』
「あーはい(ぶっきらぼうに)」
『あのぅ、どれくらいできますか?』
「え?あ、仕事ですか?」
『はい、○○なんですが、単価は○○で…』
「あーその、なんだ、すいませんが、どなたからこの番号を聞きましたか?」
『先輩の○○のアドレスからです』
「(知らないなぁ…)それは、その…」
『出来るんですか出来ないんですか?』
「あーすいません、ちょっと難しいです今、すいませ…」
ブツ。切れる電話。
「でえええ」
「ウワーウワアー」
という事で直後に俺へ電話がきて、愚痴から逃れるもとい、なだめるのが大変だった話。よく聞く感じの話ですね。
その時に、「彼の脳はどうなってるんだろうねぇ」という話になった。
「きっと俺はぶっきらぼうで感じの悪い奴になっているだろう」と言うように、おそらく「彼」の脳には負担がかかり、それを軽減するための論理がピピピとうなっていたに違いはないけど。
かわもときたわぁ
ああ何だかPCに向かって考えるのは難しい。書き出すとなると更に難しい。さすが無思考に陥らせてくれます。ネットは広大だけど、読んでいるだけで人生が終わるし。
今日のはホントただ純粋にメモの趣き。
「自分だけの人生を、懸命に走ろう、とは思わないのかね?」
「で~す よ~ねぇ~♪ (こういう人に集団の利を求めるのは難しいのな)」
「ただいま。いやぁつくづく社会はゲーム理論だな。囚人のジレンマだな。おい」
「はいはい、消費には批評がないですからにぃ」
「批評で学習なんてせんよー」
「ごもっともー^^」
「ガンダムでも作っとけ^^」
なんだか脳内スレッドの赴きで。そしてこの終わり方の切なさよ。
批評の話が出ましたけど、「愛」ってのは批判を受け止めるものと封じるものがありますよね。
作品愛とかホントか?!と思う事がしばしばですが、良い部分しか見ないでもいいものは気楽でいい。
最近のタイガース愛・ジャイアンツ愛辺りは批判もキッチリ受け止めちゃうから凄いですね。精神的にタフなモノドモの泥臭い勝負は楽しいです。うまく行ってる内はいいけどね、そこから先が愛の出番です。スパロボと一緒。
ジーコジャパンに愛はあるのかい?
そして、入り口-基礎-オリジナリティ。ミスをする可能性があれば必ずミスはおこる。まー地道にやって行きましょうと、
プロ野球は本当にゲーム理論としてよく出来た実験場ですね。観に行きたいですけどね野球、でも色々終わらないかもホント自分は微妙屋さん。
最近わと言えば、3Dソフトをいじったり、土とか板の間の描き方を模索したりしています。
ダヴィンチの顔よりシュバリエだろという気分です。以上メモ日記でした。