今回は聖書の神がエデンの園を創った真の思惑とは、”神と人類の共存共栄であった”という話をする。

 

そしてその神は肉体を持った人間と同じ存在だったということにも触れていく。

 

つまりは人間アダムを創造したのは同じ肉体を持った地球外知的生命体であった可能性を示唆するものとなっている。

 

・・・

 

命の木をエデンの園に植えた目的は、アダムたち人間が永遠に生きる事を可能にするためであると一応理解はできる。

 

だが同時に、その実を食べたら必ず死ぬという善悪を知る木を植えた理由は何だったのだろうか?

 

この永遠の生と死という相反する性質を持つ木を植えるという神の行為の真意について前回触れた考察を元にまとめよう。

 

アダムたちはその善悪を知る木の実を蛇にそそのかされて食べたわけだが、なぜそのような命を危険にさらす木を神が植えたのかという点について、それは神自身もその木の実を食す必要があったからだ、との見解を示した。

 

それによって神もアダムたち同様肉体を持っており、草食を常としていた存在であって、必ず死ぬという副作用のある善悪を知る木の実を食べる必要があり、また命の木の実を食べなければ生き永らえることが出来ず、そのようなどこか不完全で無条件の全知全能の存在ではない可能性があると触れた。

 

神が人間と同じ肉体を持った存在であり、人間と普通に交わっているという根拠は聖書にしっかりと書かれてあるのだ。

 

 

人が地の面に増え始めて、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは人の娘たちを見て好ましいと思い、望むままに彼女らを娶った。(創世記6・1、2)

 

 

しかもこの神は「神の子」とある通り、一人ではなく複数いたことがわかる。

 

創世記の記述からは善悪を知る木の実をアダムたちが食べてはいけないとしながら、神自身については善悪を知る木の実を食べたとしても、命の木の実を食べることについては問題ないことであるかのような印象を受ける。

 

そのことからアダムたち人間と神の決定的な立場の違いを表しており、これは神が管理者かつ監視者であり、アダムたち人間は神が創ったエデンの園を直接管理する従僕として位置づけ、彼らが神と同等の存在になることを許さない姿勢が伺えてしまう。

 

このように聖書とは、簡潔な文章で述べられているためにその記述の行間を洞察力でもって読み込んでいく必要がある。

 

私は聖書がこの行間に込められた真意を洞察力でもって探らせ、後世に真実を伝えるような書かれ方をしているのだと常々思う。

 

これは聖書を知恵でもって解けとヨハネの黙示録でも示されている通りである。

 

 

ここに知恵が必要である。賢い人は、あの獣の数字を計算せよ。それは人間を表す数字である。その数字とは六百六十六である。(ヨハネの黙示録13・18)

 

 

エデンの園とは一定のルール(善悪を知る木の実を食べないこと)を定めた神(地球外知的生命体)と人間が共存共栄する世界であったが、人間側の重大な過失によって結果、共存できなくなったということが創世記の冒頭では語られているのだ。

 

つまり神に造られたアダムたちの側には知られてはいけない不都合な知識があって、神によって都合よくコントロール(管理)されるはずが、同じく神の創造した動物である蛇の企み(好奇心によるものか?)によってアダムたちが神と同等の知識を得た結果、その代償として死ぬ運命を受け入れなければならなくなったのだ。

 

その代償である死とは、おそらく遺伝子の変異(遺伝子疾患)に起因するものだろう。

 

善悪を知る木の実には遺伝子に働きかける何らかの成分を含んでいたというのだろうか。。

 

この件についてはのちのち考察していきたい。

 

 

さて話は変わるがここで、園、管理者、監視者などというキーワードで似たような話を思い浮かべた方も中にはいるかもしれない。

 

例えば「約束のネバーランド」だ。

 

 

ついに実写化するようで個人的にも楽しみだ。

 

 

少々ネタバレになるが、これは食用として管理される人間がそれを育て管理する異形の主(あるじ)たちに反旗を翻し真の自由と独立を求め戦っていくといった物語である。

 

ただ旧約聖書の創世記の内容と比べて、肉食が根底にあって、その管理者は食べ物として人間を見ているという点が異なりはするが。

 

そこにお互いの立場を尊重し共存共栄という「調和」の発想はない。(※物語が進むにつれて共存共栄の道を歩もうといった話にはなっていくが・・。)

 

そこは相対する要素、対立、自分本位、上下関係といったもので支配されている。

 

 

それはともかく、肉食と草食については実に色々と考えさせられるテーマではある。

 

我々人間は肉食を常とする生活を何の疑いも抱かずに日々過ごしているのではないだろうか?

 

食べられる動物たちの立場になった時、動物に理性があったとするならその初めから決まっている自分たちの運命を知った時、どんな気持ちになるだろうか?

 

このようなことを考えれば我々人間は無関心のままではいられまい・・いや、いてはならないという衝動に(真に生命に対する倫理観のある人ならば・・)かられるだろう。

 

しかしここにきてようやく我々人類も地球温暖化の問題に直面し、自分たちの将来の身の不安を直視しようとする動きが出てきた。

 

主に乳牛などから発生する動物由来のメタンガス、農作物の肥料由来の亜酸化窒素ガス、飼料用の餌(コーンや大麦)を育てる膨大な農地獲得のための森林伐採、これらが温暖化に直結し、それを一気に解決できる可能性を秘めたのが、我々人間が草食に立ち戻るということである。

 

草食に移行することで人間の寿命の延長と地球温暖化問題の解決、動物たちの倫理的観点からの保護、などなどが同時にできるとあらば、訪れる未来は決して悲観するようなものにはならないだろう。

 

ということは、エデンの園とはそのような問題とは無縁の世界だったということになろう。

 

これが人間と動物が調和よく生きていくための術(すべ)だと神は知っていたということになるし、だからこそそのような世界を創造したに違いない。

 

そう遠くない将来、動物たちを食すことなく、共生し、地球全体がエデンの園のように草木の生い茂る豊かな大地になっていくのかもしれない。

 

ただ先では寿命が伸びれば人口が増え続けることもまた問題となろうが・・。

 

もし、アダムたちが蛇にそそのかされることなく、エデンの園が神と人類の共存共栄の理想郷として今も続いていたなら、どのように人口増加による問題を解決していたのだろうか?

 

おそらく問題解決の糸口はきちんと与えられていたことだろう。