9:59 Ameba(未投稿)
以前、数学や物理が大得意な大学の後輩に、「自分は微積分を理解しておらず、計算ができるだけだ」とこぼしてみたところ、彼が言ったのは、「覚えていられるというのは理解しているということですよ」ということだったが、それは確かにあるレベルまでは正しいようだ。
私のいう「計算ができるだけで理解していない」というのは、微積分の計算の意味づけが乏しいがゆえに微積分が「真理」(実体として存在する当たり前の事柄)として感じられていないということだったのだが、計算ができる時点で、少なくとも形式的には理解しているのは明らかである。
基本的に、数学は、形式的に理解してさえしまえばそこそこに難しい問題までなら解けるようになるから、テストで困るようなことはなくなる。逆に、形式がよくわかっていないと、「数学はさっぱしわからん」ということになる。
一方、形式として理解しているだけでは、数学が「真理である」と感じるまでには至らない。人は、意味を剥ぎ取られた単なる形式的記号変形に対して「真理である」とは感じない。せいぜい、ある記号変形が形式に沿っているかどうか、つまり、「合っている」とか「合っていない」のレベルでの「正しさ」の枠組みを超えることはない。
私は未だに微積分に関してはこのレベルを超えていないことをはっきりと自覚しているし、他の分野でも、意味を実体として感じるほど理解しているような事柄はほとんどない。ゆえに、私の数学理解は未だに形式的理解の範疇を超えてはいないのだが、与えられた問題に対して、すぐに答えようとはせずに、問題設定の意味に思いを馳せたとき、おぼろげながら、なにか実体的なものを感じ取れることがある。
実は、数学に意味を見出しやすいのは物理と絡んだときである。たとえば、小学校算数で習う、「速さ」は、本質的に物理の問題であるが、(速さ)×(時間)=(距離)の公式を「公式」としか捉えられなかったり、いわゆる「みはじ」の図を用いないと導けなかったりする人は、「速さ」の意味を掴めていない。「速さ」は単位時間あたりに進む距離である、という定義を、形式的にではなく、その意味を感じ取ることができれば、(速さ)・(時間)・(距離)の3公式は突如、自明のものとなる。それは、「果たして時間を単位に区切ることができるのか」といった哲学的懐疑とは無関係であって、時間の真相がどうであれ、時間を分割可能なものの積み重ねであると捉えたときに(速さ)・(時間)・(距離)の三者の関係がくだんの3公式で表現されることはやはり自明なのである。
要するに、数学も物理も、世界の側に属するものではなく、それを認知する我々の側に属するものであるということだ。だから、数学や物理における「真理」は、たしかに、「真理そのもの」ではないかもしれない。だが、「みはじ」の例ひとつとっても、単に形式的に覚えているだけの場合と、真にその意味を理解している場合とでは、それに対する感情に雲泥の差がある。
要するに、正しいとされているその結論まで至るのに「計算」が必要とされず、記憶もなしに、「一瞬で」「わかる」わけだ。
それはまさに(ひとつの)真理と呼ばれるべき事柄だろう。
ヴィトゲンシュタインは、哲学という重荷を背負っていると数学の山を登るのは困難になると言っていたらしいが、それはまさにその通りで、数学的世界を現実世界から切り離さないまま数学について考えてしまえば、数学は、まったくもって根拠なき決めつけのように見えてしまうだろう。
だが、哲学を超えた視点、いわばメタ哲学の観点から眺めてみれば、やはり数学とは哲学の一種、それどころかその最たるものであって、世の職業哲学者たちがどうして数学を無視しているのか、正直いって疑問である。おそらくは野望の小ささ、結局のところ、全き真理を求めているのではなく、「哲学的真理」を知りたいだけで、本当に真理を追い求めているのではないのだろう。