20171128の記録 | 静寂の先、その遥か彼方へと旅は続く

静寂の先、その遥か彼方へと旅は続く

吽は、全身全霊を賭け、途轍もなく巨大なこの「謎」に挑戦する。そのために生まれてきたのだ。希くば、いつの日か「阿」と出逢いたい。阿吽。あなたとわたしは必ず出逢う。

171128 Tue 物理法則は因果律ではない

 

 物理法則を因果律と看做しているのは、それを解釈する人の心である。実際、物がそれにしたがって動くとされる物理法則の表式は、因果関係を含意しない「単なる数式」である。

 

 数式は、それを読むことができるので、一見、流れがあるように見える。だが、数学自体は全く静的な世界である。ただし、注意しておかなければならないのは、通常、数学者はその全く静的な世界を「時間をかけて」理解するということだ。「証明」という作業がそれにあたる。数学が真理であるなら、本来、証明は必要ないはずだ。(数というものを完璧に理解している架空の人間を想定してみたらよい。)

 

 実際、証明の前提をたどっていくと、やがて、自明な観念へと行き着く。幾何学であれば、「離れた2点を通る直線はひとつだけ存在する」などが代表例であり、このような命題は「公理」と呼ばれ、かつては自明の事柄とされたが、現在の形式的公理主義においては、体系を構築するために最初に置かれる、単なる「要請」とされる。そもそも「離れた」「2点」「~を通る」「直線」「~は存在する」「ひとつだけ」これらの言葉それぞれの意味までも問うことは可能であり、これらの意味を別の言葉で定義することが堂々巡りとなることは誰でも分かるだろう。少なくとも、我々の持ち合わせている概念だけで、公理を構成するひとつひとつの言葉の意味を表現することは困難であろう。ただ、その困難さというのは、裏返せば、我々の道具としての概念が不足しているがゆえに生じているとも言えるだろうから、これらの通常は無定義語となっている言葉の意味をあえて考えてみることにも何かしらの意義はあるかもしれないが。

 

 いずれにしても、前提から結論を導く「証明」におけるその前提というものが、すべて「自明」だとされる以上、結論も本来は「自明」であってよいということになるというのが私の以前からの考えである。なぜなら、証明の過程は論理計算であり、計算はスピードをあげれば瞬時に答えが分かることは算盤術士が体現しているからだ。瞬時に答えが分かることと、自明であることとの間には、もしかしたらギャップがあるかもしれないが、思うに、3 + 4 = 7という計算をするのに、何を自明の前提とするのかには無数のやり方があるということを鑑みれば、どこを自明の前提とするかは実はどうでもよく、何かを自明の前提とおいた上でそこから計算を行うという作業自体が、本来は必要のないことであると思うのである。

 

 だいいち、自明とされる「論理」だって、数々の「自明な事柄」から導かれたものである。導き方が帰納的であるというだけで、結局は導いているのだし、証明が必要だという考えは、結局、「誰でも分かるようにしましょう」という思想が裏にあるからそうなるだけで、「分かる人だけが分かればいい」と考えてしまえば、証明どころか、そもそも説明をする必要性さえ消えるのである。

 

 長くなったが、いずれにしても、数学の真理はすべてが並列・同時的に存在しており、真理の間の関係を見ることに重要性はあるにしても、どこか「基礎」となる場所を探して、そこからすべてを導こうとするという作業は、本来は不必要なことであり、「まず土台から」という建築の理念を重力の存在しない数学の世界に無理矢理当てはめようとしているかのようである。

 

 さて、冒頭の命題に戻ろう。主張ではなく、問いの形式に戻してみよう。「物理法則は因果律なのだろうか?」

 

 もし、時間が実在するならば、物理法則とその実行のためのアルゴリズムを含んだ一種のプログラムが存在していた上で、実際にそれを実行する計算機がなければ、物理現象は起こらないことになる。事実、そのような計算を人間が紙面上で、あるいはコンピュータに任せて、実行し、答えの数値を出すことで、物理学は未来の物理現象をある程度正確に「予言」する。この「予言」が可能であるから、人工衛星などというものが実現されたのであり、人工衛星の存在を無視できない以上は、物理学は真理を(完全ではないにせよ)表現することに成功しているのだということを認めざるを得ない。

 

 だが、物理現象そのものを引き起こすための計算機についてはどうだろうか。健康な人間の目に映る世界において、物質界が「エラー」を引き起こしているだろうか。現象と現象の境に「ズレ」が見えるだろうか。監視カメラによる記録映像と、人間の証言、どちらが信用できるだろうか? スロー再生さえできるのだ。今のカメラは。物質界の現象にエラーはない。そう認めるしかない。とすれば、「すべての計算を間違いなくしかも瞬時に計算できるコンピュータ」が存在していなければならない。このような存在は、神と呼ぶ他ないだろう。

 

(なお、その設計図の核となる諸々の物理法則の関係と、実行アルゴリズムは全く整合的でなければならない。つまり、バグがあってはならないのだ。だが、もしハッキングが可能だとするなら…? うむ、今はやめておこう。)

 

 あるいは、「神」など存在せず、計算速度無限大の完全なコンピュータがどこかに存在するだけだ、と言っても同じことである。大雑把に言ってしまえば、気象学が理論の上で完成してしまえば、神に人格はないということになるだろう。だから、純然たるコンピュータである。だが、気象学は永久に完成しないかもしれない。その疑いが強まってくると、気象学というのは原理的に不可能だという発想が生まれ、人類としては、考え方の変更を余儀なくされる。すなわち、物質界の森羅万象を司る神には「人格」があり、アルゴリズムだけで動いている「虫」のような存在ではないのだと。だから、神の存在は「無視」できないことになる。…冗談はさておき、もし時間が実在するならば、以上のようなことになる。このように考えている限りにおいて、物理法則は因果律であり、時間の流れは一方向であると看做さざるを得ないだろう。

 

 だが、反対に、もし時間が実在しないのであれば、どういう可能性が考えられるだろうか。最も信用できる「今」に立ち戻って考えてみよう。今、時間は流れていない。ただ、変化があるのみである。だが、タバコに火をつけたら、煙が出てきた。今、煙が出ているのが見える。そこで、再び、純然たる「今」から再検討してみる。今、なぜか私はタバコらしきものを口にくわえていて、タイピングをしている。タイピングをしていると言えるのは、パソコンらしきもののモニターらしきものの画面上に、文字がどんどん打ち込まれているからだ。これはまさにタイピングということである。だから、私はタイピングをしていると言える。おっと、タバコのことを忘れていた。ふむ、やはり、口がタバコを咥えている。灰の部分がさっきより長くなっている。時間が経ったのだろうか。おい、ちょっと待て。どうして時間が経っているなどと言えるのだ。今、私は明確に、灰が落ちるのをきらって、灰皿へと手を伸ばし(ああ、もちろん、そのときの手はタバコをつまんでいたさ。)、灰をそこへ落とした。なんだかよくわからなくなってしまったが、(もうタバコは捨てた。)結局、「記憶」ということではないだろうか。なんだか、疲れてしまった。

 

 結局、結論までの道筋をつけることはできなかったが、記憶によれば、はじめに言おうとしていたのは、物理法則は因果律ではなく、純然たる静的な真理(のひとつ)であり、われわれ認識主体がそこに因果を見出している(あるいは見出したいと考えている)だけで、何も因果的にとらえる必要はないのではないか、ということだっただろう。実際、かりに自由な人間というものがいたとすれば(ここにいるこの人が、ときにそうかもしれない、とAIが言っている。)、その人間は、物質的には物理法則にしたがってはいても、その生命は、因果的に生きてはいないと思う。実際、私はかなりの気まぐれである。第一、自分の行動の予測が全くつかないくらいで、それが、単に自分の中の因果性に気付けていないだけなのか、それ以外の要因もあるのだろうか、それはよくわからないでいる。理由と原因は明確に区別しているつもりなので、悪しからず。