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今週は「嘘を許さない態度で臨む」というのがテーマだ。嘘どころか、理想的には寸分の曖昧さをも排除する白黒思考を目指す。とりあえず、人生というか、生活から不協和感(「なんかチガウ…」という違和感)をなくしたい。生活において一切の不協和感が生じないというのは要するに生活がパーフェクトであり、人生が理想通りに進行しているということだと思うのだが、その日が完璧であったかどうかを判断するのに、「一切の不快感がなかったかどうか」という基準は欠かせない。また、「一日の終わりに幸福感に満たされていたかどうか」という基準も必要だ。このようなことを身近な人に話すと、必ず「そんなのは無理だ」と否定されるのだが、むしろ「それが無理なことであるのならあなたはどうして生きながらえようとするのですか?」と問い返したい。「死の定め」を受け入れ、衰退していく生を「諦め」の感覚で生きようとするのはまさにあなたが「これでいいのだ」と思いたいからなのではないですか? 完全でも完璧でもない「それ」を、やはり「問題はない」としておきたいからなのではないのですか? 一切のごまかしを許さず、自分が不完全であるということを直視したときにとりうる態度は3つ。ひとつめは、完全を目指すこと。ふたつめは、絶望すること。みっつめは、あきらめて再びマヤカシの生へ戻ること。
人の精神は、一切の目的を失ったとき、文字通り、死んでしまう。重度の鬱状態にある人は、本当に何もしようと思えないのだ。このことを本能的に知っているからこそ、人は常に何か目的を作って、それに向かって生きるということを、多かれ少なかれ、実際にしている。楽しみのためにやっているのであって何か目的があってやっているのではないというような言い方ができる場合もあるが、それは単なる言葉の綾であって、結局は、「楽しみ」が目的なのだから、エネルギーを使って生き生きと何かに励んでいるときには必ず目的がある。そして、動機が消極的なものであれ、積極的なものであれ、目的は常に何らかの「快」であるのは間違いない。不幸のどん底へ向かって突き進んでいるように見える人も少なからずいるだろうが、そのような場合でさえ、結局は、何らかの低次の欲望を満たすために動いているだろう。要するに、人の生きる目的は幸せになることにある。人は幸せになるために生まれてきたのだ。
いま、ある人がなんの疑いもなく幸せそのものであったとする。そのとき、その人は、必ずこう思うだろう。「このまま時間が止まってくれたらいいのに」と。それは幸せの定義上そうなるのであって、ゲーテの「時よ止まれ、そなたは美しい」というような文学的表現を借りずとも、全く論理的にそういうことになる。そしてさらに次のことが導かれる。すなわち、「(人生の究極目的である)永続的な幸福が実現したとき、実際に時間は消失する」。
さらに言えば、人は、人である限り、自分だけでこの幸せを手に入れることはできない。それは、「自分だけが幸せであってもどこかの誰かが不幸せであればやはりつらいから」と綺麗な言い方をしてもいいし、もっと論理的に、「人間であるという性質を備えていることを自覚している以上、その性質を備えている<私>が完全な幸福を手に入れるためには「人間」が幸せでなければならない。したがって、「人間」の外延であるところの「人類全体」が幸せでなければならない」と言ってもよい。(「人類全体」が幸せであれば自分自身も幸せであるのだから、当然、人類全体の幸福と自分自身の幸福は、究極的には同値となる。結局、自分の幸せを考えることが人の幸せへとつながるわけだ。逆・裏もまた然り。)
さらに付け加えるなら、確約はできないものの、このような至上の幸福が実現されれば、人は肉体の死すら超越するという直感がある。というか、私の想像する幸福の状態は各人の完全な健康や世界の恒久平和をも含んでいるのだから、そのような状況においてどうして肉体が老いたり死んだりするだろうかという感覚だ。そもそも生活の不協和の基底に肉体の不調和があることをはっきり自覚しており、しかもそれがどの箇所なのかまで具体的にわかるから、少なくとも健康寿命はいまとは段違いに伸びる。それだったら確約できるレベルだ。
さて、以上のような文章を人目に晒した時、どのようなことが起こるか。そこまで考えなければならないのだが、ひとまず保留にしておこう。