6年前を振り返る あのときの3.11 | 7代目日記 ~更なるチャレンジ編~

7代目日記 ~更なるチャレンジ編~

7代目は、ガス屋を経営しながら、商工会青年部、若連、青年会議所、消防団 地域の活動をしています。菖蒲は市町村合併やモラージュ菖蒲の出現。政治経済が大きく変わろうとしています。まちのことや地域のこと家業のこと7代目が考えなどを書き込んでいきます。

東日本大震災から6年を迎えました。
復興が進まない。

大きな課題をつきつけられたままです。

 

私たちの暮らしも、あの時からずいぶん変わったのではないかと思います。
防災に対する意識やコミュニティーへの意識

また、東京電力や原子力発電への揺るぎない信頼も崩れ去りました。

 

6年まえの3月11日を思い出してみたいと思います。

 

3月11日の震災前は、下記のようなブログを書いていました。

http://ameblo.jp/7daime/entry-10827378847.html

インフルエンザ5日目 当時商工会の青年部長だった私は

研修旅行でみんなが佐生商工会青年部に研修に行って

その後、淡路島の北淡震災記念公園にいって
阪神淡路大震災を学んできました。

 

部長として青年部の研修旅行もいけず、

隔離されている中、みんなのブログがいつ更新されるか

楽しみにしていました。

またか、その研修の数日後に東日本大震災が起きるとは

当時は誰も思っていなかったでしょう。

また、青年会議所の塾長をやっていたので

3月11日は、新入会員向けのVMVセミナーを開催する予定でした。

当然ながら中止となりましたが、たしか第1回の塾だったと思います。

この塾もその後、復興支援として釜石にいくことになります。

 

会社もインフルエンザでお休みしていましたが、

すでに工事が入っていたため、社員に一人で行ってもらっていました。

 

そんな熱もなく私は、インフルの娘と私と隔離されていたので

ベッドで寝ていました。

初期微動を体全体で感じ、地震が来ると思ったら

今まで感じたことのない大きな揺れがしました。

これが、東日本大震災でした。

 

事態がわからなかったのですが、

インフルエンザも5日目の午後

まして、ガス屋ですからガスが止めの対応を

しなければならないため、会社にでました。

 

電話はつながらず、

お客様からの連絡はなかったので

営業店のガスの確認に回ったのを憶えています。

そうすると、工事に行った社員が戻っていないのに

気づきました。

 

まさか、現場で怪我したり・・・

もしかしたら、家の安全を確認しに行ってるかもと
思いがよぎり
夕方に自宅に行くことに、
122号は信号が消えていて

なかなかわたれませんでした。

いつもは、15分で行く道も30分以上かかりました。
後で知るのですが、この安否確認の
行動を取る人が多いのですが

阪神淡路大震災の時に交通渋滞を起こし
緊急対応ができない原因になりました。

大震災の時は、車による安否確認を控えると共に

法整備で、緊急車両のルートを確保することが

必要です。

 

社員の家にやっとのことたどり着くと

案の定、安否確認してから会社に戻っていて

社員の安全は確認できました。
このとき、消防団のみんなが

自主的に、信号の消えた交差点に立ち

誘導をし始めてました。

 

このあと、私も合流し菖蒲消防団は

みんなが10時までいつ終わるかわからない渋滞を

交差点に立ち誘導が続きました。

 

自主的に考えてできることを行う行動は、

このあと、市役所が計画停電に追われる中

市民から被災地に支援物資を送りたいという問いあわせ

に対応できず、JCと菖蒲商工会青年部が

市内で支援物資の受入を行う行動へとつながっていきます。

やっと消防団の交差点誘導も目処がつき

家に帰ると

真っ暗になった部屋にロウソクの暖かな灯りで

寄り添いながら家族で過ごしました。