日本のロック黎明期の記憶(その26)/『大村憲司』(1) | John's BOOROCKSブログ-I Love The Beatles, Fender Guitars & Movies!

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私自身が体験してきた日本のロック黎明期の話です。1970年代前半を彩ったバンド、アーティストを紹介しています。これまで紹介してきたジャックス、The M、はっぴいえんど、フライドエッグ、キャロル、四人囃子、サディスティック・ミカ・バンド、カルメン・マキ&OZに続いて、今回はバンドではなく、日本最初のスーパー・ギタリスト、大村憲司さんの話です。

憲司さん(あえてそう呼ばせてください)は、1998年にその生涯を終えるまで、日本の全てのギタリストに一目置かれる存在でした。1949年生まれですから、ご存命でしたら、今年で65歳になられたはずです。
神戸で生まれた憲司さんは、この時代のロックを聴いていたギタリストのご多分に洩れず、エリック・クラプトンのギターに大きく影響を受けています。甲南高校卒業後、ヤマハのコンテストで注目を集めた憲司さんは、渡米してフィルモア・ウェストのステージに立つ経験も積んでいます。帰国後、上京して上智大学に入学。その後1971年に赤い鳥に参加します。

赤い鳥というと「翼をください」で有名なフォーク・バンドでしたが、この時期ロック色を取り入れ、新たな方向性を目指していました。この時期の赤い鳥のアルバム『パーティー』『美しい星』『祈り』に大村憲司さんが参加しています。元々、赤い鳥はプロデューサーとして、作曲家の村井邦彦さんが付いておられましたが、村井さんの曲だけでなくメンバーの自作曲も取入れ始めた時期でもありました。そんな頃に参加した憲司さんの力量は絶大で、ギターの演奏のみならず作曲、アレンジまでこなす八面六臂の大活躍を見せています。


(憲司さん初参加アルバム、赤い鳥『パーティー』、1972年)
初参加アルバム『パーティー』では、A面一曲目「特急列車~サザン・スペシャル」、B面一曲目「パーティーへおいでよ」というメインの二曲を提供し、ゴキゲンなスライド・ギターを聴かせてくれたのみならず、後者ではリード・ボーカルまで取っています。この2曲は、程よいポップ感も十分にちりばめられたロック・ナンバーとなっていました。


(1973年リリースの赤い鳥のアルバム『美しい星』)
続くアルバム『美しい星』では、プロデューサーの村井邦彦さんの色合いが稿出た作品で、憲司さんは一曲「みちくさ」のみを提供。特筆すべきは、憲司さんの盟友とも言えるドラマー、村上秀一さんもこのアルバムから赤い鳥に参加したことでしょう。


(1973年リリースの赤い鳥のアルバム『祈り』)
憲司さんの参加した最後のアルバムが『祈り』でした。この作品は、コンセプト・アルバム的な意図を持って作られた作品で、12曲中8曲を憲司さんが作曲。憲司さんの色が濃く出た作品となりました。時にはピンクフロイドのように、時にはジェスロタルのように、ムーディーブルースのように、あるいはラヴィン・スプーンフルのようにと、ポップに、プログレッシヴに様々なロックの要素を合わせ持った意欲作に仕上がりました。中には、ボーカルに二人の女性を配した赤い鳥らしいフォーク・バラードを作曲するなど、憲司さんの別の一面も垣間見ることの出来る貴重な作品と言えましょう。しかし、残念ながら本作のリリースを待たず、1973年4月に憲司さんはポンタ(村上秀一)さんと共に赤い鳥を脱退しました。

この続きはまた明日に。