人間は、繰り返し繰り返し人生とは何か、いかに生きるべきか、を考える生物であるように思います。
それは目標を失ったとき、挫折を味わったとき、今までの生き方に自信が持てなくなったとき。
しかし、それに対する答えは、また、もう一度目標を持って歩みを進めていく以外ない、ということのように思います。
人間としての生き方を考えるとき、極端な話、生きるための最低の栄養が与えられ、植物人間としてただ生きている。
生まれたての赤ん坊が、お腹がすいたと泣き、おしめが気持ちが悪いと泣き、あとは寝るだけ、という生き様。
徐々に、食べる喜び、遊ぶおもしろさ、怒られる悲しみ、様々な知識を増やし、何をすれば、何ができれば嬉しいか、ということを学び、それが一つの目標となり、生きる喜びとなっていくのです。
そして、それ以降、最初に書いたように様々な状況の中で翻弄され、目標が消え、変更されながらとにかく目先のことを考えながら生きていくしかない、という生き方になってしまうことも多いのです。
しかし、人間は他の動物と違うのは、生きるために食料を探し求め、食べ、時期に応じて繁殖し、子供を生み育て、その役割を終えて死んでいく。というだけでなく、脳から様々な報酬系の快感物質が出されるので、仕事や研究などをやり遂げることで快感を得ることができ、それによる満足感が生きる喜びとなって生きてゆけるのです。
食べる喜びよりも、様々な欲望を満たす喜びよりも、好きな仕事や研究の方がずっと多くの快感を得ることができるのであれば、敢えてそちらの方を選ぶこともできるのです。
人それぞれ、経済的な制約はあるものの、日々生きる快感の量を最大にできる生き方を選ぶのです。それは、ただ、その日一日のことだけの目標ではなく、最終目標を心に留めていれば、それに少しでも近づくことも快感の一つとして認識できるのです。
これは人間特有の本性と考えて、よりよく生きることができると思われる目標、実現可能な目標を設定して生きることで、日々の喜びに加え、将来の大きな喜びに向かって歩むことができるのです。
しかし、人類の将来にとってその目標は適切なものかどうか、その点からぜひ吟味していただきたいと思います。