『修行』
修し、おさむるを修と言い、一方向に定めて歩みゆく事を行と言うなり。
行とは、一方向に行かしめる事であり、導く事であり、ゆく事なのである。
その一方向が道であり、真理なのである。
その命一とそれを目指して修ずるはこれ、日々、時々の日暮しなりて、命の営み即これ、修と示して教えるなり。
自らに修むるところの真を開くに、修をなすとは知る事なり。
行即修、修即行なりて常と命はこれをなす事と知る事なり。
キリストにおいては、十字架とア一メンに真の道あり。
イスラムにおいては、アッラ一と太陽一如となす事こそが道の真とは示すなり。
ヒンドゥ一においても、日本神道においても、仏教においても、みな、そこにおいてひとつも変わりなくして、生きる事即ち、宗の修とは教えるなり。
宗を修と示すは、一如の道ゆえに、ともにひとつと読ますなり。
天道真理一と目指して歩みゆく命こそ修行なりて、そこに全ての道の極まるなり。
ゆえに、衆生一切そのまま修行、修道なす事こそ早く覚めよと教えるなり。
『ア一メンのアとは主なり。
メンとは信徒自身なり。
ゆえにア一メンとは、主と聖霊と自身との一如一体、三位一体を教えるなり。
十字架とは十字即ち時と空間を示して、太陽主と一如の時とその光の広がる空間を示し、そこにつくイエスをして、真理たる太陽とひとつになって光を空間に広げる命と生まれた道の姿を秘してそこに教えるなり。
ア一メンと胸の中心に手を合せて、太陽主、神と一如と生まれる道を示すなり。』
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌