『修道』
キリスト教においてはア一メンと十字を日々自他一如と転じてゆくところに真実はあるなり。
されば、ア一メンと十字架の真実こそ知らねば、その十字の宝輪を転ずる事のかなわぬなり。
キリスト教の修道とは本来、日々の暮らしそのまま、修道でなくてはならない。
修とは、修しおさめる事であり、自らの命となす事である。
それが道なのであり、道とは、ただ天を目指して歩みゆく事なのであり、日々一歩一歩、常に歩む事なのである。
そこにおいて修行し、真理を命とおさめる事をこそ言うなり。
その道が、十字架一如の道であり、ア一メン大極一如の道である。
ゆえに、家においても、所々一切においても、修道なるを知る事こそ真のキリスト教と教えるなり。
みな、命の教えなりて、自らの命と悟り覚めるをこそ、一の道とは示すなり。
日々の暮らし離れて修道するのではなく、日々が即修道なる命の命こそを知りて、天を目指して一と生きよと教えるなり。
キリスト教のめざし至るところも、我の座処なりて太陽一如、一神大覚、大悟の道と教えるなり。
大日たる我は、ゆえに全てを一と示して、太陽の真の姿を教えるなり。
ゆえに我と修して、キリストの極理とそこにおいて至りて、至れと教えるなり。
仏陀も、神人達もみな、ただ道はひとつと教えるなり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌