『五色』
阿毘羅吽欠(アビラウンケン)
これ、五大にして、地・水・火・風・空これなり。
これすなわち五色これなり。
五色すなわち、黄・白・赤・黒(緑)・青これなり。
黄とは地大にして、黄これ心とともに天をめざすからこれ地なり。
地大一切黄道、黄金道これを目指して、共に心ひとつと天とゆくとは示すなり。
白(青)とは水大にして、白これ真如とめぐらし日と一となして、清浄離垢となすにこれ水なり。
智水天水、一切を清めて、これとなすとは示すなり。
赤とは、火大にして、あ字と加えて生命これをうえて生かし、命またよく払い清めて汚れを焼き尽くす火なり。
あ字とは真如大日如来これなりて、その太陽大日光明を加えるとは、加持一冥となして一となすに、これをして『アカ』とはここに示すなり。
黒とは、風大にして、塵垢これを払いて、悉く無知無明を除き、色心生命をよく清め輝かしゆくにこれ風なり。
はたまた、緑また風大にして、木々一切大気これを清めて悉く清浄になすゆえにこれ風なり。
青とは、空大にして、三身と連ねて光明月氏と写して清涼、清浄色心となすにこれ空なり。
青、大空本源青空にして、これ心の本処の体にして空とはこれを示すなり。
すなわち、黄・白(また青)・赤・緑(また黒)・青(また白)の五色そのまま、地・水・火・風・空にしてこれ、阿毘羅吽欠の五字これなり。
この五色、五字とあわせて示するに、十地またそこに一味と教えるなり。
黄、心ともに天を目指すから地なり。
黄道大日如来一如となして一身成道なすはまた、黄字の体なるに、これを太陽(天)一如の歓喜地なると教えるなり。
天と地、共に心(日)一如となすはこれなり。
天とは、太陽これなり。
地とは、一切衆生の色心一命これなり。
天地の一、成道なして実と至るに、真の歓喜生ずるなり。
しかるに、白(または青)、水大にして、真如光明一となして清浄離垢と洗うに、これ離垢地とこれを教えるなり。
一に歓喜至りてその光明天水を受けて無垢清浄と帰るに、離垢の一理の生ずるなり。
さればそこより命、一と冥して輝くに、赤、火大にして、発光地とは教えるなり。
離垢地となしてアカ(赤)と加えて一冥となすは、自身命の蘇生と示すなり。
菩提蓮華の開敷の体と示すなり。
ゆえに発光地を赤と示して一味の法と教えるなり。
黒(または緑)すなわち、真如一となして色心よく輝かしめて一となす体にして、よく無知無明を滅して、焼ききる智慧と生ずるに、焔慧地これと示すなり。
発光地にしてよく開いた蓮華それを熟し、波羅蜜多と生じて、真如一となするに、よく風の塵垢悉く払うが如くして、全ての無知を払いて燃やすと教えるなり。
青は、真如一冥の月なりて一円の太陽一となして日月の明、月氏の光明三身一如、三諦、三密一如にして成するに、清浄にして空、青空の如く体にしてこの地、至り難きゆえに、難勝地とこれを合わせて示すなり。
この五色一円となして至るを、自受成身の体と示してそこより、仮他の大行と立つに、他受の体とめぐらし、黄・白(青)・赤・緑(黒)・青(白)と示して、黄、現前地、すなわち、一切と心共にして、一となすに、現前一々の智慧と開いて一となすとは示すなり。
白、遠行地、すなわち、仮他の大行と立ちて、あまねく清浄となすが如くして、一切無分別一義の智慧と開くもここになるとは示すなり。
清浄自性心、一切となすは、この地とこれを教えるなり。
赤、不動地と示して、一切の無知無明、煩悩、大悪、邪心これを焼ききるは、不動の火の如くして、その智不動となすに、自他一如の菩提性地これと示すなり。
黒(緑)、善慧地なりて、一切の闇これを払いて善慧となすにこれなり。
塵垢悉く払い清めて善慧とめぐらすところ、風の一切とゆくが如くなり。
除闇遍明となして、一切善生主、一切智をもちて、よく衆生と説法ゆきわたらすところこれなり。
青、すなわち、法雲地なりて、青空に法雲満たすが如くして、説法実相、法爾自然にして、凡聖一如、煩悩即菩提にして、一切と尽くして、自利利他の大行円満となす相これなり。
かく、十地一冥一円となして、仏果成身なると教えるなり。
これ、阿毘羅吽欠の法体の一部分の釈とはこれを示すなり。
しかるに全ては但、阿字一文字の開合なるに、阿字の大理を開いて全となすとは知る事なり。
これを説き示せば、広大無辺、無量無尽、全となりて尽きない教えとなると知る事なり。
黄を創造となし(地)、白を維持となし(水)、赤を保存となし(火)、黒、緑を破壊となし(風)、青を再生(空)となせば、五色と宇宙原理の一と教えるなり。
これまた、阿毘羅吽欠の五字の法諦なると教えるなり。
オ一ン・アビラウンケン
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌