『真実の宗教とは 31』
宗教は本来個々、万人のものであり、組織のものではない。
ましてやその法たるや、なにをもって組織のものとこれをなさん。
そのような考えこそ宗と法を一番に害し、悪し、邪し、ないがしろするものである。
組織などなくても、万人は本来一人一人、自らの真実なる心をもって、それを持するのが正しい姿であり、みな自ら達が、自ら至るを目的とするに、組織これみなただの仮有のものなりて、個々本来のあり方こそ一に大切と申すなり。
法と修し持すれば万人、汝等がみな本尊一如なりて、本尊と至りて一となするに成仏、成神なると言うなり。
個々の真実がひとつひとつ結ばれたのが組織であり、組織のほうを主体として、個がただついてゆくならば、宗の本来の姿を失う事の多きなり。
すなわち、権力だの、名誉だの、金欲財欲だの、自我欲ばかりの世界なりて、本来のあり方をなくして、信じる者達をさえ毒しゆくからである。
組織の為の宗でなく、個々の為の宗となし、それが結ばれて組織となるなら、その組織にとらわれる事なく、真の信仰のみにして結ばれるなり。
しかるに組織づくりにて自己を飾る事ばかり考えて世の為、弱人々の為と言う万人の福祉と人間形成、世界形成を忘れてしまう組織が多いのは、みな、すでに宗教者としてのあり方よりも、事業家、実業家の世界となっているのである。
個の為なら、体面たる組織を棄てられずして宗とは言えず、すなわち一人の救いの為には、一寺、一会館など増やし建てる事なく救いこそ行いなすのが本来の姿なると言うなり。
一方で苦しむ人々を見て種々論じながら、キラキラ飾りたてた自己主張の会館ばかり建ててゆくのは、人の命より、自己主張の方が大切だからである。
それはもはや、神だの、仏だのと言う者となる人の姿には非ずなり。
成仏と申すなら、宗教と生かされる人々はもっとよく考える事である。
汝等は、汝等の力によりてなすに非ず。
みな、神と仏、宗と法とその全てのお陰ゆえに今の姿となりゆくなり。
それを忘れたらその世界はもはや、迷いの世界と落ちゆくなり。
宗にありてよく外道と申して分け卑下して申する者あるが、宇宙当体ならば万法、万道みなみなその内となるに、どこに外道なる道と生まれるなり。
ゆえにその者達、迷い、大愚にして無明の妄語をなすなり。
そはみな、宇宙当体の内にありて小我一々の中に住して池の蛙の如く、我こそ一番と慢じて大海を知らぬに内に争いて慢じるなり。
真言亡国、邪教などと申して、その真言と修す事なく知らぬに、一言大理至れぬなり。
その者達が唱える祈りの言これ、真実の言と申さぬ事と同じなり。
真実の言でなければ、それ妄語虚言と自ら申すも同じなり、それを無知とは申するなり。
念仏と申してこれを卑下なすも、その念仏と修しもせず、その法の意も至らず知らずと害し謗するなり。
汝等みな宇宙当体と申して宇宙を知らずと愚かなり。
一花一輪そのままみな大法となするに、常住説法なするなり。
例えば礼と申せばこれ一切なるに、万物万生に手を合わすも全て正しき正行なり。
この心と至らす為に一乗大法と開くなり。
不軽とはなにゆえこれを申するなり。
汝等礼の一字も実と読めず、解せずして真言これを邪しゆくなり。
汝等、密を離れて顕ならぬに、密教を害し謗しては正法はならずと言うなり。
宗の一字、仏の一字、神の一字、法の一字、あらゆる万字みな真言なるに一々大法なりゆくなり。
これを一相、一味、一法なると言うなり。
神はもともとこれを天下あまねく与えるなり。
それを解せず馬鹿な諸行を飽きずと繰り返し成しゆくなり。
その自らの愚かさこそ覚めて、迷いの増上これをなくしなさいと言うなり。
宇宙当体の外に道などなきを、よくよく知れと言うなり。
そは、偽の当体なるに迷いてそれが解らぬなり。
これを教えて申せば、汝等の修し祈る法も正法のひとつなれど、今だ至らぬ道途上の者と教えるなり。
宇宙当体大法一如の身よりながむれば、一々みな、我の子等と申すなり。
子等の争い、子等の喧嘩はみなみなあきたと天に集いて笑うなり。
一切神仏、法と暮らせばみなみな我と親族なりて一切ひとつに暮らすなり。
それみな大法の内にひとつなるに、互いに互いを守るなり。
ゆえによく知るがよい。
大法当体と一如なればみな、平等となるにみなみな至る所、無上道とこれを言うなり。
これ真実なりてここと至れば、超える者も無くなるゆえにみなみな無上と申せるなり。
釈迦はゆえにまた一切の仏みなこことひとつと示するなり。
仏の仏、仏のみこれをよく知るに、知らぬ者達は、神をそして仏をないがしろにして、その法を害し、邪するは全て誤つ事を知るべきなり。
みな汝等道の途上なりて仮城、化城にありて迷いているなり。
道はまだまだ先と知る事なり。
しかるに至れば、一切そこと満ちて覚むなり。
これこそ知れと教えるなり。
『よいかな真言とは、真理真実の言と言うなり。
念仏とは、今の心これ仏と言い、一切に仏性ありを示し、阿弥陀仏と唱えて祈り、そこと一つになり、阿弥陀仏と至り生まれて、阿弥陀仏一乗、一切阿弥陀仏と生まれる法と示すのである。
禅は禅と修して真理の道と入りて一切神と悟り、神一如と生まれるを教えているのである。
法華題目は、真理太陽と詣で祈り自らの仏性蓮華の華を開き咲かせて悟り、妙なる知恵を得て自らが経、教えを説く命と生まれなさいと教えているのである。
法を唱え祈るのは真理の道と開き入りて、悟り自らが仏と生まれて、衆生を導き救う命と生まれるを道としているのである。
ゆえに自らがなんの為に宗教を求め入りたか、よく考え知る事が大切である。
決してその目的を忘れてはならないと言うのである。
その道の大いなる一を悟り無上義と至りた者こそ真の仏と言うのである。
ゆえに誤つ宗教には依ってはならないと言うのである。
人間形成、自己完成をして、真実の世界と生まれなさいと言うのである。』
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌