真実の宗教とは29 | 太陽王法の会


『真実の宗教とは 29』


『宗』をみな正しく至らしむるは、これ宗の根本の勤めなり。

人々よ、至らぬ者にはまだそこは説くをなせぬなり!

ゆえによく法これを与えて、共に至れる道を正しく成せと言うなり。

宗教者として、宗を知らず至れずに、宗を分けて争うは、目くそ鼻くそが宗を笑うが如しなり。

如来、神、仏を知らずと、それを邪教だの悪教だのと申すは、これまた、目くそ、鼻くそが神、仏を笑うが如くなるに、その目くそ、鼻くそに落ちた自分を知る事なり。

キリストに至れぬ者が、キリストを邪し笑うはこれまた同じにして、釈迦と至れぬ者が、釈迦を論じてとやかく申し、力がないだの、上だ下だのと申するはまたこれなり。

阿弥陀仏と至れぬ者達、この仏の本願を見てから、それを成せたら申する事なり。

なにもなせぬ無明がこの仏を卑下し、邪し悪するは、目くそ鼻くそが、仏を笑い、害するが如きなり。

その愚かな自分を知らぬ大無明者と言うなり。

みなみなよく知るがよい。

そこと至る事も、近ずく事もできぬ者が、いかな者でも、邪し笑うは、地獄の生命に等しき者となると言うなり。

自らが、自らを見つめて、目くそ鼻くそに落ちる事なかれ。

宗も仏も、神も、そこと至れぬ者に、それを説くも語るも不可能なり。

その事実こそを、当たり前に覚めて知れと言うなり。

一切を尊べる者はゆえに一切を得る者と言うなり。

すなわち、地池の蛙となるか、大海の帝王となるか、よくよく実と見つめよと言うなり。

一切を尊べる者は一切を得るなり。

それをなせず慢じるから、なにも得れぬなり。

いかな正法の中の一法と持するも、これをみなよく知れと言うなり。

尊びをよく知る者は、尊ばれるをよく知る者なり。

ゆえによく尊びて一切これを得る者となるなり。

慈悲これをよく知る者は、一切の慈悲これを知るなり。

ゆえに自らもその門に入りて道と生きるなり。

祈りの真これを知る者、慈悲の真これを知る者なり。

祈りとは『阿吽』なりてニ門一如の門と言うなり。

慈悲と祈り一体なりて阿吽なり。

祈りこれ神仏と近づくゆえに『阿』なると言うなり。

祈りこれ、神仏と払い清めるゆえに『吽』とこれ言うなり。

すなわちこれ慈悲と申するなり。

信仰とは名誉の為にあるのであろうか。

肩書きの為にあるのであろうか。

私利私欲の為にあるのであろうか。

権力や名前や肩書きに無中になって醜く争う、そんな仮有無常のものに心を奪われていて、なんの真実が得られようか。

その人達は自分を得る事より、その肩書きの方が大切なのであろうか。

その人達は、真実を得、道を得る事よりも、その名誉肩書きの方が大切なのであろうか。

成仏を目指すと言いながら成仏をなす事より、肩書きに無中になり合い争う。

そして真実とその道を遠ざかるほど愚かな事はないのである。

裸になっても、自らが仏を得、神を得、成仏なせば、そんな肩書きなどガラス玉程の価値もない事を知るのである。

信仰とは、いったいなんの為にあるのか、組織ばかりに無中になり、肩書きや、権力ばかり求める者は、もう一度考えて見る事である。

肩書きを欲し争う者は、もはや権力の虜であり、それをもって権力を使いたり、他を罵る事は、真、恥ずべき事なり。

仏になるに優りて信仰の真はなく、神になるに優りて信仰の真はなく、その前には肩書きなど一塵の砂ほどの価値もなきなり。

その者達はみな仏となりし、汝の足下に集うのであるから。

肩書きと組織作りのみに酔いしれた者は、もはや真の信仰者と言わず、権力欲や名誉欲、財欲と言う迷いに執り捕まった者達である。

その者達はもはや、それさえも解らないのである。

神、仏を心から信じるならば、覚めなさい。

決して偽宗教組織に騙されてはならない。

『人と自然と一切はみなひとつにして、人はその中で、人を生き、生かされるのである。
されば世界はよく開けて、目覚めて見えるなり。
人中心主義の奢りは世界を誤つものなり。
自然はみな本来人の親にして、一如と生きているのであるから。』

自然を大切にしなさい、この地球も命なのですから。


太陽の法嗣

大日 天光子

合掌