真実の宗教とは28 | 太陽王法の会


『真実の宗教とは 28』


全てが宗教であると気づき至り覚めば、宗教は宗教でなくなり。

はじめて真実の宗教とかえるのである。

それこそを真理と言うのである。

一切を含み、一切となすゆえにこそ、真実の宗教と言うのであるから。 

個の形をなす宗教はみな道これ途上のゆえに真の宗教とは至れぬなり。

それに気づかず、自らを見失い、有頂天となるからなり。

真実の宗教とは、一切であり、全てであり、ゆえに真理とこれを言うなり。

さすれば今ある形の宗教を超えゆきて至るところにこそ、真の宗教は実と完成するなり。

それはそのまま、万生万人一切天地の宗教となるゆえに、宗教が宗教で無くなりた時こそ、真実の宗教がそこに生まれるなり。

一乗真理の悟りとは本来それを教えているなり。

『宗』とはこれ釈せば真如法界法身の諦と申し、はたまた一切と言うなり。

ゆえに真の宗と至りた者を、宇宙即我の仏と言い、神と至りた金剛神と申すなり。

宗とは、ゆえにその本地なりて宇宙とこれを示すなり。

宗の一字これを読みて神と読み、仏と読み、一神、一仏乗と読みてまた、法界宇宙と読みて、真理と読めずば、真の大悟はなりておらぬと言うなり。

更に申せば宗とは、そのまま真理と示す一切世界なりて、天地自然とこれを言うなり。

そこにありて一切を包みて、その真理と写し並べて連ねるをして、八方みなひとつと等しくなすに宗とはこれを示すなり。

すなわち、宗とはそのまま、太陽なりて太陽光明なると言うなり。

ゆえに宗はそのまま大日なると言うなり。

太陽たる神そのままにして、大日如来と申するなり。

ここと至りて一となするに皆々大日一如の成仏なると示すなり。

それ、一切なりて欠けるところ無きゆえに、宗の一字で示するなり。

宗の、阿点これ太陽大日の阿字悉曇の教えと開くところなり。

その光明ウ冠とはゆえに、この天地の天なる天蓋なりて、その下にして内なる一切を示すところなり。

ゆえに天地一切これ宗の内と示して教えるなり。

その示すとは本来、神の祭壇にして神の宿り処なるに、神の座処と教えて、一切衆生神性これと教えるなり。

これをまた仏教においては、一切衆生仏性これと教えるなり。

その示すところは天地大自然と命の全てなりて、はたまた一々一切なるに全てを正中心とは示すなり。

そはみな、太陽と一にして正中心に連なる地球と一なる生命なるに、そのまま一々これ、連ねてひとつと示すなり。

ゆえに人と写せば、人の天蓋、ウ冠頭頂の下にして内なるところに示すは、神、仏の宿り処にして法性なると言うなり。

そこと一切を至らしめるに宗教全てとなして与えるなり。

これ一々と釈せば、一切経となりゆくなり。

大日如来の宗とは、真理真実の宗ゆえにして、分けて争う、対立差別の迷う大愚の宗とは落ちぬなり。

ゆえによく聞くがよい。

一切世界の宗教と申すもこれ、大日如来と我の手の内となればみなひとつに治まるに、その手の内なる宗教それぞれが、分けて分断対立して世界に争う輩は、皆々小器とこれを言うなり。

実と至らぬ途上の小さき宗教と言うなり。

そのような宗教はやがて変化となして、散りゆくものと教えるなり。

更に、その小さき一々の宗教の内にして更に分けゆき派閥をつくりて争うは、まさに池の宗教と言うなり。

更に申せば、その一派一派にありて、またまた争うは、ノミの世界と言うなり。

例えば宗教を神と仏と分け、仏教をして一々の仏と分け互え、その上でまた、一々の宗門だ、宗派だなどと分けゆきて、その一々の宗派、宗門などと申す中で更に小さく争いゆきて、分けゆく事をなすなり。

それをなして、そこにおいて我等こそが一番の正法にして、太陽だなどと申するに笑止千万なり。

それは真理においてノミが慢じて申すのと同じなり。

よく聞くがよい、『宗』とはそのまま大元の宇宙なり、太陽宇宙法界法身なりてその一切なると言うなり。

一切を内と包みて大平等となして、全てを包むに、『宗』の一字の真理が成りゆくなり。

ゆえにこれを教えて大元なると教えるなり。

ゆえに大日如来と我の真釈の宗とくらべれば、みなノミと写りて見えるなり。

我と大日如来の宗は、一切の一切を包みて一となし、掌に乗せて見守る世界と言うなり。

ゆえに宇宙即我の真諦にして、実なる諦と言うなり。

宗教を分ける者、いかに大きな法となそうが、そこと悟り至れぬ道途上のものと言うなり。

はたまた更にその内にありて、分断や差別、対立なして、こまごまと分けて争うにおいては、蟻か蚤の如く哀れな世界と言うなり。

そはみな、仏と申して仏を知らず、神と申して神を知らず、正法と申して正法を知らず、自宗が一番と奢りて迷う、大愚の者達と申するなり。

その者達には宇宙即我と言うも解せぬなり。

宗の一字も読めぬなり。

どんな難しき言葉を暗記なしても、心が読めず、真の世界が見えぬなり。

ゆえに我に言われるとみな、歯軋りをして、悔しく思いなさいと言うなり。

それゆえに早く、真の悟りへの道と修し、心の扉を開いてその実なる世界と出会いて、開眼して悟り、我と至りなさいと言うなり。

我は太陽の中心、中尊の座と至りて大日如来とひとつに、天下を見つめるなり。

人よ、真理とは、人の計らいを超えた命の世界と早く覚め知れとは教えるなり。

『大日如来を摩訶・毘盧遮那と言うなり。

ビルシャナとは、古来、ヴァイローチャナと言い、太陽の事を言うなり。

即ち大日如来は太陽にして、太陽宇宙の太陽神、原初大元の大いなる神と教えるなり。

その太陽宇宙の法身にしてそれゆえに法界神と示し、これを教えて、法界体性智と言うなり。

それを合わせ鏡の智を示して、大円鏡智と言い、そこに一切の平等を教えて、平等性智と言うなり。

妙なる一切智を示すを、妙観察智と言い、全てを作り成すところの智をして、成所作智と教え、五智の真理を教えているなり。

この智を一切に見また、五智の悟りと言うのである。』


太陽の法嗣

大日 天光子

合掌