『真実の宗教とは 25』
宗教家を名乗るあなた方は真の心、命、道の悟りを真理世界に求めて修行しているのではないですか。
仏教では、ただ上面だけで経を、うまく読む勉強の世界ではないのですよ。
また仏教の学校に入って経を学ぶだけの、上面学問でもないのですよ。
天地自然や命の中にも一文字の中にも普段生きている行ないや、営みの中にも、すべてに教えが、易しくも、深くもおかれているのですよ。
その内にある秘密を教えるから秘密経、密教とも言うのですよ。
宗教と真実求め修行すると言うならば、自分達の成すべき道を忘れてはなりません。
釈迦の悟りの始めの出来事をよく見て考えなさい。
梵天神にその悟りた教えを人々に説き、教えて下さいと頼まれてまず、理解できそうな苦行の時、共に修行した者のところまで長い道のりを歩るいてゆき、始めに説き教えたのが初転法輪と言うのです。
その開きた真理の世界を人々に説いても到底理解しがたいと思い、真理真実にそってまず、心と命と命の道をやさしく説いてその求める人々に教え、その心を気づかせ、癒しと安心を与えたのです。
釈迦は自らの生きる道において、更に智慧を自らのものとして命の光を増し、四十年以上の時を、自らの精進と人々への導きをなしてこの世を生きて、始めの小さな誕生仏から大仏と生まれたのです。
その釈迦に対して天衆は『釈迦牟尼世尊を毘盧遮那遍一切處と名付けたまうなり』と歌をもって讃え、太陽主たる大日如来一如と至りた、真の一乗仏、無上最上義と至りた仏であり、神金剛と生まれた大いなる仏と証明したのである。
誕生の始めに花祭りで頭頂に香油を示すのは、五大(地・水・火・風・空)であり、五形(土・水・火・木・金)を注いで太陽宇宙と地球天地大自然と命の一を示したのである。
これを仏教では大円鏡智と言い、神道では合わせ鏡の法と言うのである。
そこにおいて釈迦仏教が生まれ成立したのです。
その釈迦が説いた経が全てではない、仏教には顕経と更に深い密教があります。
それは太陽主である大日如来がその大光明をして顕す全てとその内におさめる広大無量の秘密教があるのである。
その一々を表し説くのが真の密教である。
教えと言うものは秘密にして隠すものではない。
その教えを開示して知らしめ、相手をして理解せしめるものであり、それが真の伝授した事になるのである。
釈迦の始めの悟りへの真理の道を開いた時の神秘不可思議の世界は、真と開き至らずして理解しがたいものである。
ただ自らの心の扉を開いて、実と出合わずして、言葉で語りても、信じられず、理解しがたい真実である。
よいかな、法に依りて始めに少しばかりそれを知りたと申しても、真の仏陀とは言えないのである。
それのみをして自らを真の仏陀だのと名乗りたり、メシア、救世主だのと申すのは誤ちである。
時に、始めに日蓮の生まれ変わりと申して、その後に釈迦の生まれ変わりなどと言い、更に太陽を超えた大宇宙の神であり名をエルカンタ一ラだとか申して迷いている者もいる。
仏教の道は深く無量広大にして無尽である。
その道において一乗の理を実と極め、無上第一義諦、無上最上義と悟り至りて真の一義を悟り至らずして、大いなる仏陀とは言えないのである。
ゆうに数千年に一度しか生まれぬ存在と言うのである。
人は神に何を求めているのか、宗教人は何を求めて修行しているのか、もう一度よく考えて見なさい。
天を目指して修行をし、その道を極めて、今度は地へ降りてきて人々、衆生を導き、その無知の闇と迷う者達を導き救いゆく。
それを道として光の生命を生きる、菩薩達はその道の中に存在して生きる、その道を『上求菩提・下化衆生』と言うのである。
それが仏法の根本にして肝心である。
ただの墓守りでも寺番でもないのである。
自ら修行し、学び修し、寺に人々を集めて説法、教えを説いて導いてあげる。
それこそ真の寺のあるべき姿である。
更に過去のオウムのように、水の中に少し長く沈みゆく修行や、宙に浮く修行をしたからと言ってなんになるのか。
シヴァ神の教えの破壊をとってその意味も理解できず人々を殺してもそれが救いだなどと考え、無差別集団殺人をなして、それを道だなどと教えたのは、なにも知らない、大無知の者と言うのである。
破壊の原理は再生の原理と一にして成り立っているのである。
例えば、人間が大気を汚しすぎて地球と言う命を崩せば、それを清め返す働きとして、大風を起こしたり、台風をして雨風をおこして、清めゆく働きをおこすのです。
それが、破壊・再生の原理なのである。
人も体を汚せば洗い流すであろう。
水と火熱で湯と炊き洗い直すから、もともとのサッパリした命とかえるのである。
地球と言う命も同じである。
人が地を汚し、自らのものと思いて、やたら掘りだしたり、地下実験だのと繰りかえせば、地がやがて動き地震となってくるのも、再生の為の破壊である。
木を切り崩してばかりいれば、地は緩み崩れるのも当然である。
海を汚しに汚せば荒れて再生しようとするのも当然である。
人の身体が病めば直さんとするのも当たり前であろう。
物が壊れたりしても再生して更によくするのもそうである。
全て人が関係している因縁因果である。
この天地にその原理を正しく読めずに、自分勝手に解釈して、人に説き教えるような者には、真の悟りの智慧はないのである。
また、物を高額で売りつけたり、教えの本だと言って、何百、何千万で買わしたり、金集めばかりする宗教は本物ではない。
一義の真理を知らず、自分の組織以外の法と教えを信じると地獄に落ちるだの、他の宗教は邪教だ、悪教だ、魔教だ。
ゆえにそこと接してはならないなどと言い、神社の門を潜ってはならない。
祭りにいって御輿を担いではならない。
山車を引いてはならないなどと、自宗の中だけに閉じ込めようとする宗教も、真理を知らず、悟りなどなしていない宗教である。
一山真理の山と登るに、道は無数とあるのに、それさえ理解できていない。
全て至る頂は一つである。
ゆえに一乗、大乗と言い、一と全てを乗せるゆえに一乗と言い、大きく乗せるゆえに大乗と言うのであるも理解できないのであり、その宗祖を釈迦を超えた最上の本仏だなどと言ってなにを言っているのかも理解していない。
みな道途上にありて真の一が理解できないで、対立差別している至らぬ者達である。
仏教の道をきちんと知り、その真理・真実を知りなさいと教えるのである。
『覚めよ、その迷える闇を脱ける為に。』
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌