真実の宗教とは24 | 太陽王法の会


『真実の宗教とは 24』


神は人と人とが傷つけあい、殺しあう事を教える事などない。

ましてやその時の権力者にそれを決めつける権限などはない。

戦争によって苦しむ民の心を一番に知るべきである。

苦労して建てた家を破壊され、土地を離れて難民となり飢えや寒さや、恐怖に怯えて暮らす民の心を指導者はよく知るべきである。

この世で犯す大きな罪を考える事である。

それは権力欲で自分が何をしてもかまわないと言う無知の迷いの姿である。

民の上に立ちて自分がなにをしているのかも解らない。

そんな権力者に従い、自分達がなにをしているのか解らなくなっている。

そして戦争に協力している自分の姿をよく見てその愚かさを知るべきである。

神は人間達になにを教えているのかをよく考える事である。

神は人間達がこの世界をどう作るかを見つめているのである。

神の人間に与えた始めの戒は、『汝殺すなかれ!』であり、人には、人は人を殺すな、殺しあわせるなであり、殺す罪を一番の罪と教えているのである。

すなわち『殺す心をこそ殺し、生かす心をこそ生かせ!』と教えているのである。

「殺す者達に殺すをもって報いたら、殺す行為は尽きる事がない」とも教えているのである。

そもそも平和とは、戦争によって作るものではない。

どんな権力者の生命も、永遠のものではない。

すぐ後ろには、次なる権力者とならんとして、狙っている事を知る事である。

そもそも権力者は民から選ばれてなれたのである。

ゆえに自分が民の為にどう生きるべきかを知るべきである。

よいかな、人間の真の価値とは、この世、世界で何をなすべきかを考え、何を成したかが一番の肝心なのである。

民と世界の為に生きる姿こそがその人間の価値を決めるのである。

それを忘れて、独裁者となったつもりで、民や世界を苦しみと迷いの世界と落とし、闇世界をつくりゆく。

最も愚かな無知者の行為である。

ましてや自ら宗教者を使いたり、神の名を語りてその悪なる行為と引き入れる事などは、大いなる誤ちである。

人は自分達がなんの為に、この世に生をうけてきたのか、生きる為の心とは、命とは、命の道とは何かを考え知るべきである。

その無知で闇と迷う自分を知るべきである。

ゆえに真理の道を求め、真実道理を覚め知るべきなのである。

その道の為に多くの者達が神の存在と真理の世界を求めて修行者となって悟りの世界を求めたのである。

神を求め、仏の悟りを目指し多くの菩薩達がその道と入りたのであり、本来寺の僧侶達の道はその為に生まれたのである。

その悟りの道と教えを学び、道を得て自ら修行をし、世の為、闇と迷う人々の為にその道と教えを正しく説き教え、その悩みや、煩いから解放してあげて救うを目的として生きるのである。

その悟りを得れない者も、仏の教えをしっかりと理解して、広く世界の人々に説き与える為に僧となったのである。

仏教は形式ではない。

ただ自分一人が生きる為ではない。

仏像に向かいて自分で理解できぬ経を上手く読みゆくのが真実の道ではない。

仏像は仏を形として造りたものにして、それに並んで経を読んで見せればよいと言うものでもない。

経は仏達が説いた真理と道の教えであり、その仏像としての仏に向かって説くものでもない。

僧は人々に向かいて、その経とある教えを説くのが真実の姿である。

その真の目的を忘れて形式仏教にするのが真実の姿ではない。

死した者に心から読んであげるのは、誤ちではない。

しかし、ただ覚えて読んで、布施としての金集めには走っては道に反する行為となるのである。

ただの葬式仏教ではないからである。

されば神の世界に生きる宗教家はどうであろうか。

心からその教えを読んで伝えるのはよい姿であるけれど、自ら達の真の道の修行は忘れていないだろうか。

なんの為にその宗教家の道を目指したかを忘れてはならない。

世界と人々が真の平和世界をつくり皆がその苦しみから脱ける為に何をして、どう生きるかを、もう一度よく考えてみる事である。

宗教家に何を求めてなったのか、何をなす為にその世界に入ったのか、よくよく考えてみる事である。

世の為、人々の為、天地大自然と一体して、皆が平和で幸せに生きれる世界を思い、その道を目指したのではないのか、皆が明るい笑顔で暮らせる世界を作らんと目指したのが、その目的ではないのか。

されば何をなすべきか、考えて神の心を思うべきである。

道は自らも天を目指し、真理と覚め生きて、この世を天の楽園、天国と生む為に考え考え生きて自ら神を目指し生きるのが、神の与えくれた道でもあるのである。

ゆえに金欲、金集めに依ってはならない。

権力欲に溺れてもならない。

名誉欲にも迷うな、裸できたこの世、なにをなしたかが一番の肝心である。

心大きく生きて自ら道を説き教える導師になりなさい。

神は実と存在するのです。

道も全ての中におかれ説かれているのです。

神の教え無きところはないのです。

全ての宗教家は本来のあるべき道と帰りなさい。

その宗教家と心から神を信じる信徒と心一つにして成すべき道を生きて生きなさい。

金集めをしたりして自分達の利益を考える偽宗教や、物を高く売り付けたり、やたら献金しないと地獄に落ちるなどと脅してその家庭を破壊して破産させたり、苦しみに落としたりする神がどこにいるのかをよく考え決して騙されてはならない。

そんな世界に神も仏もいないのであるから、その宗教を名のりている者達は自分達が地獄へ落ちる因縁をつくっている事さえ解らないのであるから、そこにはいって、自ら達が地獄に落とされないように早く気づき覚めなさい。

『宗』の意味も、道も知らないそんな詐欺のような宗教には決して依ってはならない。

その為に、神の道を修して真の悟りをなして、神の心に添いた教えを説く私の教えを皆んなで学びなさい。

そしてその無知の闇を滅して、智慧をつけて光の世界と生まれなさい。

そこで真と覚め、自らを悟り、命の道をしっかりと生きなさい。

その為にこの世に来て迷い生きていた私が道の扉を開いて、その世界と帰り、開眼をして悟り、教えを自ら説く者となり、説いているのですから。

この真理神秘世界は口で語りても人々には理解しがたいところがあるに、私はその心と命と命の道を示し、夜の暗き闇を、光明の朝の如く覚めを与える為に法と道との教えを説いているのである。

その教えを心から知り覚めた者達は、そこから進歩して自らの道を成しゆく人となりゆく事となるのである。

されば世界もまた正しく開けて、不可能であった事も可能となす道もなるのであり、進化をもとげるのである。

真の平和世界も生まれ、小さな事で迷い争う者達もいなくなるのである。

人よ、やたらメシアだの仏だの名乗る者には気をつけなさい。

その者達は真の道も、真の悟りもなしていないのであるから、なしている事をよく見て騙され盲信して自らを誤った道へと落としてはならない。

真の宗教のあるべき姿を知り、真実と当たり前の道理を見て、自らの道を努力して一道と貫き生きなさい。

そこにどんな苦労が生まれても、負けずに貫けば、光ある輝く道は必ず開けてくるのですから、その自分の目指す道を一道と貫き歩みゆきなさい。

そこに真の自分を見るのですから。

明るく迷わず、大きな心で生きなさい。  

『神と仏の教えを心から修し貫けば、その世界はその道において、そっと真実の道と教えを与えてくれるのですから。』

『万億の道がありても至る頂は一つなのですから、自らの目指す道を一と貫いて生きなさい。
そこに道は開くのですから。』


太陽の法嗣

大日 天光子

合掌