『真実の宗教とは 15』
真理を一山の山と例えれば、その中心たる頂は一つである!
全てはそこを目指して生きている。
その心と命と命の道を教え導くのが宗教の真の目的である。
その為にこの世界全てをしてその命を教え導き、迷いの命から真理真実の命へと教え導いているのである。
この根本を忘れては、真実の宗教を知らない証しである。
真理一山の頂を目指して人は道を登りゆくのである。
ゆえに創造の神は全てをして教えを与え、人自らが気づく事を見つめているのである。
闇の暗き迷いの命から、覚めた光の命と帰るのがゆえに道と示しているのである。
釈迦はその真実の命の悟りを求めて道を修したのであり、その為に菩提樹の下に座して法を修し、道と悟らずしてそこから立たない覚悟で座し、道を求め実なる世界の道を開いたのである。
そこに開かれた神秘実なる世界と開き入り、実なる悟りの門と開き、そこにその道を見て、悟りの真実を見たのである。
ゆえに釈迦の誕生仏は花祭りで示すように、最初は小さな仏をして現したのである。
それからの修行を生涯をして成し、大いなる大仏と誕生したのである。
即ち月氏たる命から、太陽神の命と生まれたのである。
それが太陽主、大日如来と一如と完成した一乗仏としての釈迦如来の姿である。
そこに差別、対立を離れた真の仏の姿があるのである。
すなわち無上最上義と極めた真の仏の真の姿を教えたのである。
即ち真理と言う一山を極めて、登り来る道は全て一と説き示す真の道の悟りを示したのである。
よいかな、宗教の『宗』の大元はその全てにあり、太陽宇宙の天盖の内にして示す全てを『宗』と表し、その全てがその一なる道をゆく命と教えたのである。
ゆえに『宗』は一切であり、求めゆく道は全て一なる道と教えるのである。
ゆえに真理を一本の木に例えれば、その幹に一つとある全ての枝は、みな一つの幹に帰りゆく命と教えているのである。
ゆえに差別や対立をする宗教はみな今だ真と至らぬ道途上の宗教と言うのである。
数と教え示せば、全ての元は0であり、その0は0としての一であり、大いなる0である。
その0から全ては生まれ、その生まれた一が+としての一となり、一としての一となるのである。
そこに道を正しく見れば、相対の道の一が見えるのである。
例えば、善悪は一の道を教える為にその教えがあるのであり、それが解らぬ者達の為に更に、善因善果、悪因悪果を教え、善へと帰さんと教え、一道と教えゆくのである。
調和と対立も、調和へと導く教えなのである。
ゆえに真実道理をよく見て生きなさいと教えるのである。
この大元の一を知るゆえに大いなる0が理解できるのである。
この大元の大いなる0が全てを生む創造の原理である。
大いなる主たる神は創造原理をして創造し、形成識をして形成し、それを維持・保存し、守る為に破壊し、再生するのである。
そこに進化が成り進歩がなってゆくのである。
これが、創造の原理、形成の原理、維持・保存の原理、破壊再生の原理である。
人はこれを全ての中に見る事である。
この太陽宇宙の主であり、中心は太陽日輪である。
その大いなる太陽宇宙の屋根、天盖の内にして下に示すのが、合わせ鏡、大円鏡智としての全てである。
その理を示してそこにまた平等性智を教え示すのである。
ゆえに全ての道はそこに示され、その全てを『宗』と教え、そこに心と命と、命の道を教えるのが真実の宗教の『教』と言うのである。
これが解せぬから真の宗教が理解できないのである。
大いなる一と来たりて、命を完成して一と帰る。
これが全ての命の道である。
それを教えるのが真の宗教なのである。
ゆえに真理真実の宗教を知り、その為にある道をよく見て知り、闇と迷う命を脱して光ある覚めの道と帰り生きなさいと教えるのである。
よいかな差別して対立する宗教よ、よく聞きなさい。
天と自由に舞い飛ぶ鳥達を見なさい。
左翼だけで飛べますか、右翼だけで飛べますか。
その鳥の命の中心に右翼左翼が一と調和して一つに羽ばたくから自由に天を飛べるのです。
こんな当たり前も解らず迷い、差別や対立をしているからその世界を無知と迷う宗教と言うのです。
自分中心に生き、自宗中心に生きているからその迷いから脱けられないのです。
鳥の姿に教えてもらいなさい。
相対を一なる道と見れずに解せぬから、全ての中にある道が解せないのである。
ゆえに真実の宗教を知りなさいと教えるのである。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌