『死生を学ぶ!』
無量寿経第四節、(現実の人生と教誡)にいわく、『世の人々は、善をなせば善きを得、道を求むれば道を得る事を信ぜず、また、死は生まれる事であり、与える事は福を得ると言う事を信じない。
即ち彼等は善悪因果の事を全て信ずる事はない』と言う仏の申するところの、これ、我のよく教えきたりたところとまさに一なり。
『死は、生を生となさしむる為にあり、生み、生かし、生かしめる為にある。
即ち、正しく生まれる為にそこにおかれているのであり、死を生むような生を生きなければ、道は大となり、真と生まれるを示すなり!』
人はこの事がわからないから、苦しみの中に落ちると示すなり。
死を見つめた時、人は生の大切を知り、命の真と覚ざむるなり。
ゆえに、生きると言う事が、そこから始まるのである。
死ぬ事を忘れている人達は、生きると言う真実をも忘れるのである。
ゆえに死を知って生を学べと教えるのである。
死を見るから、生がわかるのである。
死を見ないから、生がわからなくなるのである。
死が、ただ生まれる為にこそ存在している事を知れば、生きるという命を知ると教えるのである。
死を見ずに忘れて生きていた人が、死というものを気づかされて見つめた時、命を見つめ出すのである。
その時から、その人の本当の生きるという生が始まるのである。
人はこの多くの事実に命のゆくところを、よくと見よとは教えるなり。
死を忘れて暮らすから、その人には生が解らないのである。
ゆえに、命の道を見失いて迷いの中に暮らすのである。
死ぬという事を気づけば、その時から本当の生きるという命が始まるのである。
死を知り死を学ぶ事は、ゆえに最も大切な事なのである。
死を学ぶから、生を生として生かし、生む事を知るのである。
死とは、命を命として生み、育て、本当の命と誕生させる為に、本来あると覚めれば、命の本当の生き方に皆、気づくのである。
死ねば、全てが終わると思う者こそ誤ちた人であり、無知なる人と言うのである。
死ぬ事はまた全ての始まりと知れば、自殺などによりて今を逃げる事が、どんなに愚かな事か気づくのである。
死は、生を生として、誕生させる為に、そこにおかれているのであり、それを粗末に用いる者は、その報いを受けなくてはならないのであるから。
死を見つめて我は、現在の生を得るなり。
大迷大愚と迷い暮らして死を見つめたる時、真実の生きるという事を覚めたのである。
その日から我の命の営みが、本当に始まったのであり、我はその日から生まれたのである。
そこに道を見て、神仏を得て今の我を完成したのである。
すなわち、死は、生を学ぶ最大の師である事を人々が覚めれば、本当の命を知るのである。
これが解らないから、仏陀、神々の教えるところの、『死は生まれるためにあり、生まれる事である!』という意味が解らないのである。
死は生を学ぶ師である。
死ゆえに生が生き、輝くを知るのであり、輝かすを知るのである。
死は、生を生として誕生させて、命を生む親となるのである。
死はゆえに、生まれる為にあるのである。
この真実の道と覚めれば、命の意味、生きるという価値がそこよりわかるのである。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌