『禅!』
花が知りたば花になってしまえ!
木が知りたば木になってしまえ!
風にも、雲にも、雨にも、大地にも、海にも、一冥となして一切一となしたら、それが禅である。
文字と見じてそれを真実知りたば、文字になってしまえ!
自ら文字になってしまわずして、その心はわからぬなり!
文字となって一切と満たして一元となせば、それが禅である。
自他と別しては禅にならず!
全てのもの全ての言葉も、文字も、万物も、一如となして一となるがまた、それが禅である。
一とならずしてなにゆえその心がわかるなり、即一はゆえに禅である。
全てを一となした時、自分以外になにもなくなる!
それもまた禅である。
入我我入一冥の真はこれ禅なり!
仏も神も、即一となすに自身また成仏、成神なり!
一を知らずばゆえに禅とはこれを申せぬなり。
直指人心、見性仏性をして、直指己心、見性仏性となせば、如実知自心これなり。
自らに仏を見ずになんの成仏至れるなり!
禅とはゆえにまた、如実知自心にして見性仏性これなり。
神即一にして一切一なり!
神とは真理にして自己にそれを見ずして、真の大覚至れぬなり。
そこと至るに禅はこれ成るなり!
そこと開きて、修し行じて一切一となしゆきたら、禅もこれ一人前なり。
釈迦の神秘門の教えもみな、実の門と知らずして、真のところは解せぬなり。
経文文字のみ見つめ続けてもその真のところはわからぬなり。
自身法蔵と開いて一験と至れば、経文文字に非ずして、その真の心の見えるなり。
仏教の真実、神教、宗教の真実はみな実と至るに、正と成るとは知る事なり。
禅はその為にあり!
止観またこれしかりなり!
密開覚なすに、真の命の蔵は開くなり。
されば、全てはそこにおさまりて無尽の蔵と開くなり。
不立文字、教外別伝と申するも、ただ、自ら至りて知れと示すなり。
ゆえに正法禅にのっとってそれを修して実と至れと言うなり。
実と至れば万経も、禅の一字におさまるなり。
これ、至らぬ者には解せる事の非ずなり。
ゆえにただ、真と至れと教えるなり。
(禅の文字をよくと見よ!
その片は示片であり、そこに単とあらわして『禅』とするなり。
即ち、示は神を示し、単とあらわし、神一如となして生まれるを『禅』と教えているのである。
『神』は全てに示し申すとあらわし神と教えるなり。
一切は神にして神のあらわれなるに、その最と至るをめざし修するのが即ち、禅法なのである。
曹洞宗は自己が道を得て神秘真実を開きて自ら悟り至るに面壁禅であり、そこと至りた者が、智慧をもって衆生済度となすのが、臨済宗と言うなり。
釈迦の如く禅に入りて、道を見、道を得て実と悟るのが禅者の修法修道これと知る事なり。
そこに神秘不可思議なる真理真実が現れて、そこにおいて戒めとなし、磨きとなし、修し修して悟り開眼を実となして、智慧を磨き磨くのがその道と知る事なり。
これの解らずしては真の禅者とは言えぬなり!
ただの形式仏教は真実の仏教とは言えぬ道理真実を知る事なり!)
ただ禅、全一元となれば、無上最上義と至りて、それを一乗仏と言うなり。
摩訶毘盧遮那遍一切處と名ずけたまうと天衆に讃えられた釈迦は太陽一如の大日如来と成ったのである。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌