枝葉の論 | 太陽王法の会


『枝葉の論!』


枝葉の論を繰り返しても、肝心の命たる幹の本道、根本たる命を忘れては、真の成る事これなし。

幹を腐らす事はその命を腐らす事なるに全ては、その根本の道にこそ帰りて見つめよと言うなり。

たとえば、仏という大木ありて示せば、根も枝葉もこれみな一なり。

八万四千の根あろうとも、これ幹は一、その一を忘れて一々と対立なして枝葉の論となすはこれ、愚迷の論これなり。

ゆえに、幹正中心の大道と帰りて、一をこそまず、覚め帰れと言言うなり。

すなわち、原点とかえりて根本真実の一をこそ、見つめ直せと教えるなり。

平和という幹を忘れて枝葉の論と繰り返し論じあいても、なにもならぬと知る事なり。

幹、根本があってこそ枝葉も成ると言うなり。

しかるに、その幹を忘れて愚論と迷いて、枝葉に争うにおよびては、妄迷の姿とこれを言うなり。

平和という二字一言の根本を知らぬゆえに、枝葉の迷と化するなり。

この根本の幹を知りて、その命を中心と立てて大同に住すれば、小異愚論の生じはあらずなり。

平和とは、平等大調和の一なるにその平和という大木、実と育つと知る事なり!

それと解らずに小異対立して平和論を申しても、みな枝葉の論と申すなり。

すなわち、幹の根本、一切の一を覚めて、平等にして大調和を中心にすえて反せざれば、全ての枝葉も、輝く緑と生ずるなり。

そこにこそ真の花も咲き実も成就となると示すなり。  


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌