『害・知ると言う事!』
それを見たからと言って、それが害になるのではない。
害にもちいるからそれが害になるのである。
問題はそれをもちいる者の心にあるのである。
よく覚めた者は、全てを真実と道理にそって見る目、見る心をもっているから、なにを見ても、害になる事はないのである。
それは害を害と知っているから、自らもちいる事がないからであり、それをそれと知る事によって正しく智慧と変えてゆけるからである。
見て知ると言う事は害になる事ではない。
それを正しく知り正しくもちいるを知らないから、それが害となるのである。
知ると言う事には全て害はないのである。
知らないから、それと対応できないのであり、処理できないのである。
人があらゆる全てを見て、正しくそれを知るならば、あらゆる問題は全て解決するのである。
知らない事、知ろうとしない事が、実は問題なのであって、知ると言う事は一番大切な事なのである。
それをそれと正しく知る事は、それに対応できる事であるから、正しくもちいる事も、正しく処理する事もできるのである。
知らない事がゆえに害の根本の原因となるのである。
ゆえに全てをただ否定せずあるものをあるものとして、しっかりと見据えてゆき、それを知る事が大切であり、それを知ったならば、正しく対応処理する能力を養い、正しく用いてゆく事が大切なのである。
全てを見て知ると言う事は、ゆえにそれが害になるのではないと言うのである。
そこに真実と道理を見て、正しく知り、正しく用いられる自分を確立するほうが実は大切だからである。
ゆえによく覚めた者はなにを見ても、それは害になる事はなく、それを知る事は逆に、更に自分を昇華せしめる因縁と変ってゆくからである。
煩悩を菩提と変える力とは真にこれであり、闇を光と変える力もまたこれである。
無知無明から、悟り覚めた智慧者と生まれるとは、真にこの全てを知ってゆくところになるのである。
ゆえにただの否定論者は、それを知る事がなく、ただの逃避者もまたそれを知る事はできないのである。
されば、単なる厭世宗教は真実の悟りをもって生きる者とは言えないのである。
しっかりと目の前の現実を見て、よく知り、正しく知り、正しく生きる事こそが、本当の意味での人生であり、それを教えられる者こそが人生の師であり、人と万生全ての師たる者となるのである。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌