天台の僧正最澄 | 太陽王法の会


『天台の僧正最澄!』


天台の僧正、最澄よ!

汝の名義の最とはなんぞや!

これ、天に日と掲げてその日を地に一と取りて一命となすに、これをして最とは言うなり。

その最すなわち、日月の明諦、一命と証得して、智水天水をもって天と昇るに、澄とは言うなり。

水、天と昇りて澄み清らかとなる、その意は最の大義におさまるなり。

この最澄の名義一となすが、天と結んでひとつになすと言う、天台の意義とは示すなり。

天と台(結んでひとつになす)、最と澄一味の一と知る事なり。

天と結んで澄みきった青空と帰る!

その大空心、大空海にこそ、名義の一とおさまるなり。

さればそこにおいて空海と最澄は一となるとは知る事なり。

その天において更に磨き磨きて、一切を照らすところの遍照と生まれるが、ゆえに最澄、空海ともの命の道と教えるなり。

ゆえにともに本尊は太陽にして、摩訶・毘盧遮那神仏、大遍照、大日如来と示すなり。

その太陽は全てを分けずして一と照らする事を知れば、宗教の対立者を生む事は一番に愚かな事と言うなり。

天台より出た日蓮などはこの当たり前の道理の読めぬに、大きく誤つものと知る事なり。

その日蓮とて、天に日を掲げて、地に蓮華を咲かせるを知らずに、名義日蓮とはならずと知る事なり。

日とは太陽にして大日如来、この天と、地涌の蓮華菩提心を一となし、境地冥合せずしては、妙法蓮華経も、真とならぬと教えるなり。

すなわち、その本尊を脇におき、害い軽んじ、切り捨てていては、真はならぬと示すなり。

この当然なる道の見えぬから、神道の天照の名義も読めず、八咫の鏡の意義も解せぬなり。

解せぬゆえに、神道を軽かしめる事を信徒達がなすなり。

神社の鳥居をくぐるなとか祭に出るな、神輿を担ぐなとか、信徒に示し教えるなり。

神道の神社に奉る神体の鏡とは、全ての命の内なる神性(仏性)を教えているなり。

これが日月の明(妙)諦、大円鏡智にして、八咫の鏡はこれとひとつと教えるなり。

この天地、合せ鏡の理と知らずにその教えの意義も解せぬなり。

月輪に住する仏・菩薩、金剛は全てこの理をして成道となすに、これを一切如来智印(遍知院)と示す知る事なり。

全ての本尊はゆえに太陽たる大日如来とこれを教えるなり。

これを忘れて気づかず、太陽を脇において、地を中心に考えているから、転倒なると言うなり。

されば全ての本尊は、太陽大日如来と知るのが全ての道と教えるなり。

人々よ迷わず、声字実相の意をよく知り、名義とひとつに与えた道と法のあるを知る事なり。


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌