『正法常にして末法は教導の方便!』
森羅万象は常に正法の時なり。
天地世界存在するに正法の尽きる時これなし。
過去に説き、今、現在に説き、未来にまた説き、常に正法の滅するところこれなきなり。
末法の教はこれ教導の方便なり!
すなわち、衆生において正しい法、道徳の乱れたる時これをして言うなり。
その末法こそ正法の光輝かしめる時これなり。
されば、正法とは常なるを実と聞けとは示すなり。
太陽の登らぬ時なくして、春夏秋冬のめぐらぬ時これの無きを知る事なり。
常にある大正法、光明と覚すが、衆生全ての一大事とは知る事なり。
ゆえに大日如来とその世界は今、この時をこそ、永遠となして常に正法を説きて与うと教えるなり。
大日の時は太陽日の寺の時なるに一時無時これなり。
一時無時なるに常なる今がこれ正法の時これなり。
されば太陽滅せざるをしてその末法これの無きなり。
大光明と照して一切明界となすは常住の正法これゆえなり。
末法と言うは人師化導の時においてこれを現すなり。
真理においては諸法実相是れ正法なるに正法は常なるものと示すなり。
太陽大日登り来たりて、朝となし、昼となし、夕となし、夜となし、月と輝かしめる、是れすなわち常住の正法なり。
太陽大日登り来たりて、青空となし、雲と流して大空に顕すはこれ一命一心の教にして常住の正法是れなり。
一月が十二月と移り変わり、春夏秋冬と見せるところ悉くこれ正法なり。
太陽の宇宙世界その見せるところ悉く是れ一命の経典にして正法是れなり。
末法と言うはゆえに教導の方便にして人師化導の時、これを示して末法これと言うなり。
たとえば釈迦牟尼世尊の正法千年、像法五百年、教法五百年、その二千年の後をしてその末法と現すなり。
紀元二十世紀の末すなわち、二千年をして世紀末などと騒いでいるはただイエス・キリストの末法これにすぎぬなり。
イエスの法二千年をして末法と示するにそれに即して、世紀末などと申するなり。
なにゆえイエスの元年を世紀の始めと言うなり。
なにゆえイエスの二千年を世紀末と言うなり。
天地世界はそのような時をして、始めとも、終わりとも、申さぬ事を知る事なり。
ゆえに太陽大正法と説く大日の時は、永遠にして常住これと示すなり。
常住不変の正法とは是くと知れとは言うなり。
真理には末法などゆえに無きとはこれを知る事なり。
(末法とは人心の乱れて、正法が忘れられ、真実と道理がおろそかになって、世に乱れが生じて、人みな真理の世界と智慧が無くなり、無智が蔓延した時をして教え示すなり。
その闇深くなりた時に太陽は真理真実の教えを説く者を使わすなり。
それを仏陀と言い、真実の正法者、救世主、メシアとも教えるなり
。
その者は神秘真実の道と開いて、真の開眼をなし、頭頂に香油を注がれた者を言うなり。
その神秘真実の道において智慧と修し、獲得して万教無尽、広大無辺の教えを説き、一円大法輪と転らして、無上第一義諦の法と説くなり。
天はその者をダァヴァテイダァヴァ(天中の天・神中の神)と讃えるなり。
またアディダァヴァ(超神)とも言うなり。
天衆の讃えて言うに、摩訶毘盧遮那一切處が生まれたと唱い讃えて歓ぶなり。
すなわち、太陽の法を説く者の証明をなすなり。
この真実は真と生まれた者にしか理解できぬ事実なり)。
オ一ン・アビラウンケン
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌