『広大な道!』
神の道、仏の道のこの道を申してせまき道と申するならば、誤ちである。
その道そのものは広大にして無尽なるものなのであるから、修道の門が至りがたくして狭きと言うなら、狭き門と言うべきである。
しかるに神と仏の門また実のところ一切に満ち充ちてあるに、普門と言い、万門と言い、八万四千の門と言い、狭きと言う事はないのである。
大いなる神、大いなる仏陀の歩く道ならば、広く大きく一切に満ちているに、本来広きものとは示すなり。
それを狭きと言うならば、神の愛、仏の慈悲を狭きものとはなしゆくなり。
ゆえに私は、道は広大にして無尽とこれを示すなり。
『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は一切これを生じる!
是れを道と言うゆえなり!』
神の道は広大なり!
一切世界、一切衆生、全てが真理神の御手の内ゆえ、そこにおいて全ては道と示すなり。
ただ衆生には広すぎてそれが見えぬだけなり。
全ては真理(神)の御手の内にして、道はそのまま、そこにひとつと知る事なり。
神の胎内の懐に抱かれて神の見えずして、道のまた見えぬなり!
ゆえに広き道も、狭き道とは見えるなり。
真の一乗、はたまた一神これを解せば、全ては、神とひとつと申すなり。
されば全てそのまま、道にあるとは示すなり。
天を得るに、自ずからその道また成るなり。
されば諸々天道と歩むが、道の道とは言うなり。
諸々天道と歩めば、自ずから道はそこに成るゆえなり。
神仏の道またそこにおいて自然の内に一と得るとは教えるなり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌