盆会供養 | 太陽王法の会


『盆会供養!』


お盆の盆とは一に物事を浅く乗せて分け対立している義こそを示すなり!

はたまたその下なる皿は円くして平らかなるも!

その円く平らかなるを忘れて天に分けて暮らすに、その転倒の姿をそこに示すなり。

その上で、全ては円く平らかな皿、即ち地にひとつに乗っている事をもそこに教えるなり!

分とは切り分けると言う意にして、盆とはまた大きく外へ向けて開く皿と言う意を含めて、全てを迷いから救いて大きな心、大きな世界と悟り帰らしむる大意もそこに示すなり。

すなわち、盂蘭盆の梵語をウランヴァ一ナと言い、倒懸と訳して、この意を逆さにかける事、逆さまになる事、手足を縛って逆さまに吊るす事と示して、非常な苦しみにある事を教えて、そこから正しい命と帰すをそこに教えるも、盆の大意と知る事なり。

世の人々の転倒して真実を知らず、自己中心に生きて、『貪・瞋・痴』の三毒をもちて逆さまに暮らすに、そこにおいて苦しみを生む事を教えて、その末において、『地獄・餓鬼・畜生』の生命に生き苦しむ姿を教えてその苦界転倒の命を正しく覚め帰すを、盆会の意とも教えるなり。

されば、自己中心に分け対立している命を教え、餓鬼貪欲の姿を教えて、その逆さまの心を捨てて、一切に布施供養する心をそこに教えるなり。

倒懸(とうけん)すなわち、逆さまに転倒して生きている無知を教えて、正しく立て帰すのが、盆の大切これと知る事なり。

地獄の大木に逆さに吊るされて苦しむ姿と教えるも、そのひっくりかえった迷いの命を救う心を示すなり。

すなわち、此岸より彼岸と帰し、穢土より浄土と帰す心を一と教えるなり。

迷い汚れの命を洗い覚め帰して、光明清浄の命と帰すを盆の心と教えるなり。

分け違えた世界も、全て円く平らかなひとつの皿に乗せて平等なるを知る事なり。

迷える命の全てを切り開きてひとつに帰す、これが盆会の行とも教えるなり。

されば盆には、その餓鬼貪欲の心と覚め、他に対して与える布施供養する心となせと言うなり!

自己の逆さまの命、逆さまの心を覚めて、相手の立場に立って思いやる心と気づき知れと言うなり!

その転倒した命を、祖先と自己の上に正して供養する事こそ盆に行いて、常に忘れてはならない。

僧は盆会にこの心こそ説き教えてよく法と道を説きて、全てに布施(法施)となせと教えるなり。

それを忘れてこの時ばかりと、金集めだけをなし、欲迷いの餓鬼となるのは、この盆会の主旨本念に全く反するゆえに、決してなしてはならぬと知る事なり。

僧侶は正法と正教、正道を布施し、衆生は、自己のできる布施をより広くなしゆきて、盆会に、地獄・餓鬼・畜生等に落ちた者達に迴向せよと言うなり!

その供養功徳によりて、そこと落ちた祖先も救われゆくと知る事なり。

なによりも、自己がその功徳によりて救われゆく事こそを忘れてならぬと教えるなり。

ゆえに盆迴 盆会は、その逆さまの心こそ正して、真っ直ぐと立て直せと言うなり!

その上で彼岸(悟りの岸)に向けて一歩一歩正しく歩みゆきなさいと教えるなり。

『よいかな、供養とは命を共にして互いに養い養うあうと言う事である。

その為に布施と言う行為を教え、貪欲に見失いて餓鬼道に落ちる命を教え、覚め救わんとなすのである。

餓鬼とは我と食らう鬼といきる姿を教えているなり!』

全てに合掌!


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌