『成道の原理はただひとつ!2』
阿弥陀仏においても同じである!
中心である大日如来と一体してそこに坐して、宇宙即我と成身すれば、一切はこれ阿弥陀であり、阿弥陀一乗となるのである。
これが一乗の理であり、全て太陽である大日如来と一如一体なして実と験証成道なして大悟大覚なしてこそそこと生じるものと示すなり。
すなわち、密教の曼荼羅はその理を示して、一と教うと知る事なり。
中央の大日如来が、中台八葉院の大蓮華を開いて、その真理原理と一如なしゆく修法の諦をおさめつつ、曼荼羅を展開なすと知る事なり。
全てはゆえに、その大日如来より生じて、大日如来一如の応化変化身にして、大日如来とこれを教えるなり。
一印会はその一仏乗の諦、すなわち、一神教の一神の諦にして、その展開なすところが大曼荼羅なると教えるなり。
すなわち、そこにおいて見れば、多仏乗(教)にして多神教とはなりゆくなり。
これたとえば、自らの身体生命が神ならば、その命の内の全てが神となるのは道理なり!
天地宇宙が神仏の体ならば、その胎蔵は全て神仏にして、それを分別して一々と示せば、一神即多神、一仏即多仏となるも道理とこれを教えるなり。
さればそこと至りた者も、今だ至らざる者も全て、本来大日如来一如の大日にして、全てはその大日如来の子とはなるとは言うなり。
すなわち、実と法に依りて修し、あらわしめて、験証したのが釈迦仏はじめの諸仏なりてまた道者、聖者とは示すなり。
みなこれ、太陽大日如来の法にして、そこと実と至りて大覚成身完成なすを命の道と教えるなり。
そこにおいてキリスト教のア一メンの理も、イスラ一ムのアッラ一の理も、ヤハウェの一眼の目の理も、天
照大神の八咫の鏡の理も、全て一味の一と示すなり。
ヒンドゥ一教と仏教とも分ける理由また、その成道の真と、その極において、 なにもなきとは示すなり。
全ての宗教の本道もまたただこの太陽の法に一とはこれを示すなり。
今のこの時においては、この私がその実なる成道成身者にして、その一の一を極め説きゆく者なるに、そこにおいて私が大日如来とこれを証すなり。
この理において全て、中尊、太陽の中心に一と覚せば、そのままに全ては等しく一なるに、一即全・全即一となして、平等大慧の完成して、はじめて無上等正覚、アノクタラサンミャク三菩提が実となるとは教えるなり。
そのまま一の平等となるゆえに自在無礙にて全ての法、全ての宗も、一と導く者となりゆくなり。
さればそこにおいて宗教をたがえ、別し対立している者達はなきゆえに、それをなす者達はみな、その悟りを今だ至りておらず、仏陀にあらざる者と言うなり。
一神大覚の神にあらざる者ともなりゆくなり。
私はゆえに帝釈天の理より説きて、極の大日如来の理へと教えて、全ての一の真を示すなり。
太陽一如と至る事こそ、神教、仏教ともの、真の道とは教えるなり。
ゆえに全ては太陽の法にしてそこに究まるものと教えるなり。
太陽の妙法をして蓮華と咲かせ至る経と言うも、これを離れて無きと示すなり。
しかるに、日・月を単に脇待の如く示している教えにおいては、地球と太陽の実相宇宙観の違いもあり、またそれそのものを法諦これと聞けばよいとは示すなり。
中心は太陽にして、その太陽より地を広大無量ととらえていた世界観は、もはや、真にあらずと知る事なり!
全ては太陽の宇宙にして、太陽大日如来を一となすとは示すなり。
太陽一如にして自らが太陽となる、これが真実なる真理の諦と教えるなり。
我は太陽偉大神秘なる王法と導かれ大いなる悟りと開き道を得るなり。
その時において実なる開眼を得て、頭頂に香油を注がれるなり!
諸仏神々そこと現じて手をたたいて我を祝福くれるなり!
我そこより道に修し修して智慧を広大無辺と説く命と生まれるなり!
この実なる神秘不可思議偉大なる法道の真実、人々に言葉をして語りても人々の理解を超えるなり!
ゆえに智慧万教と説きてそれを証するなり。
その偉大真実なる世界とみな至りて知れと教えるなり!
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌