『念仏名号名字即の教え!』
『仏阿難に告ぐ!
汝よくこの語を持て、この語を持つ者は即ちこれ無量寿仏の名を持つ!』の言これ、名字即等覚を教える言なり。
阿弥陀仏念仏すなわちこの語をたもつ者は即そのまま、この仏の名を持つ者これと教えるなり。
すなわち、名字即は仏法の肝心中の教えこれなり。
名字等覚と至りてそこより名字即妙覚と昇華成道大悟なすは正法の修これなり。
これと示せば、念仏申する自身が、その念仏と一如一体境地冥合なして自ら念仏となる事これなり。
自身が、阿弥陀一如の修法と修して三密加持なして阿弥陀一如の成身大覚と至るはこれなり。
名字名号即一となして等覚なすはこれなり。
しかるにそこより大道、妙覚と至るは一乗大悟、阿弥陀一乗これと教えるなり。
念仏なして念仏となり!
ただ、念仏とこれなして一となるはこれなり。
念仏とは今のその心を仏と結ぶ事なりて、今のその心をして仏と成る!
仏たる自身一命の真実、法性と覚め至る事これなり。
仏とは、命と結ぶ大いなる命なりて、真実の命と覚め至るがその法の道の道とは示すなり。
そこにおいて神秘甚深不可思議、阿弥陀界の導きあるも、至らずこれの解せぬなり。
法に法の道ありて、そこに開くにそことあらわれ、命と法の約束そこに成りゆくなり。
これ実と開き験じて至らぬ者には解せぬなり。
念仏は、念仏をして至り申せば解すなり。
口や文や学問でこれを申する事に非ずなり!
それらはみな、実と験じて至りてから、それを智慧と示せと申すなり。
自身阿弥陀一如の阿弥陀と生まれれば、そのまま無量寿仏の名を持つ一人なるに、その法身界に一と入ると教えるなり。
この甚深の妙を解せずしてこの真実、解すもなきと示すなり。
自身一命の真実、その命の真理と開きて、そこに導かれ、そこにおいて修し磨きて、自身成仏なせば、その者また実と示して阿弥陀仏の名字即等覚、名を持つ者となりゆくなり。
この名字、名号すなわち、語を持つ者はゆえにそこと生まれて、そこと入り、そこと一と暮らすと示すなり。
されば、その者達、末に阿弥陀一乗と覚して、よく一乗を守りて法の一味にあると示すなり。
法はみな、自ら一命と至る事こそ肝心なると教えるなり。
名字即等覚とはゆえにまたそれを示すと知る事なり。
入我我入、冥地冥合、三密加持、神人合一、梵我一如、等々と示すも、それゆえの教えとこれも知る事なり。
阿弥陀の法名大法甚深によりて、そこと修してそこと往生なすは、大法の微妙の真と示すなり。
ゆえに念仏においても、自身一命を離れてなすは、誤ちなりて、その一命真実と覚め開きて至るが真と示すなり。
その為に、その法一如の世界ありて、それを導く事と教えるなり。
それも一身一命の上に聞かずと解すはならぬなり!
みな自身一命肉団の内にこれを聞けとは言うなり!
その上で、この天地一如と大覚なせと示すなり。
この法も甚深にして至らず論じても、真は説くはならずと示すなり。
ゆえに法然、親鸞においても、ただ念仏と示して、自らで至りて知れと示すなり。
正法は法華題目においても、一切真言においてもこれみな同じ大理と教えるなり。
これまたみな至らぬゆえに解せぬだけと教えるなり。
(仏阿難に告ぐの文は、ただ阿弥陀を勧進する文に非ずして、意義は甚深微妙の上に立つなり!)
念仏とは、今の心(今+心・念)をめぐらし一と結ぶに仏性これのなるなり。
今の心、命とめぐらしてよく結ぶは即ち、念仏一如の修諦これなり!
今の心よく命と結びて一如となすは、ゆえに仏の心と教えるなり。
念仏はゆえにこの心を自身となして、自らの仏を得よと教えるなり。
命とよくめぐらして一と結ぶを仏と言うのであるから。
(南無阿弥陀仏と祈り修して、自ら阿弥陀仏一如となして阿弥陀仏自らとなして生まれる!
南無阿弥陀仏と修して阿弥陀一如の阿弥陀仏と生まれる!
それは今の心、自身の道なり!
それが真の念仏の道なり)
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌