太陽正法と古代の宗教観2 | 太陽王法の会


『太陽正法と古代の宗教観!2』


即ち、地それを広大な世界とし、その一命大覚の王として生まれたる者が沢山生まれて、我こそが、一神大覚の王と申すから対立を繰り返しひとつにならぬと知る事なり。

これは全て天地観において誤つゆえに生じたのである。

よいかな友よ聞く事なり!

この地球は丸い地球であり、広大にして無尽の大地が広がりて、天地を二分する世界ではない事は今や子供でも知る常識である。

ゆえに神教、仏教ともに古代の天地観は誤ちであり、その宇宙観も誤ちである。

ゆえにその時代に、地に座して、宇宙即我と大覚した釈迦と言えども諸仏と言えども、その平面の宇宙、平面の天地一命の覚りゆえに、そこにおいて日月を従える如く説く教えが生ずるなり。

これは先に示した天地創造の神一如の体と写した姿とこれを知る事なり。

その中心はみな地におき、地と座した自己にそれをおくとは知る事なり。

しかるに友よ、地球天地が、太陽日輪を従えるのでもおさめるのでもなきとは知る事なり。

太陽の宇宙の主は太陽にして、その中心に日輪があるのである!

この日輪に地球は従う星である。

されば、地を中心にして日月を見て従えていると考えるのと、正しく日、太陽を中心にしてこの世界を考えるのとでは、大きく違うと知る事なり。

古代においては、キリスト教の創造神は天地を分けて創造し、その上で日月を生んだと示し、神道においてもまた、天地誕生の国造りの上で日月を生んだと示し、古代インド思想においても全く同じと知る事なり。

仏教においても、その宇宙観は同じであり、全てその中心が逆ゆえに、ひとつになれないのである。

その誤ちを捨てて太陽中心の観点と立てば、それらは全てひとつになれると知る事なり。

ゆえに私は、その誤ちを誤ちと正して、太陽の法をもって正しく説くと言うのである。

仏教においてまた示せば、東方の薬師如来の左右に日光・月光をおくのも、イザナギ神(東方の神)の左右に天照(日)月読(月)とおくのも、その中心を地に坐す自己におくゆえなると知る事なり。

この自己と地を一となして、その地王にして一切天地の王と申せば、このような形の生ずと知る事なり。


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌