『イエスよ、友よ!2』
イエスよ、友よ!
無花果の木ありて実をつけていなかったからと言って、枯らしてしまったら、いかにしてその命を救うと言うなり。
人のその命に実をつけていなかったからと言ってその命を滅してしまえば、救われる者は無くなるなり!
よいかな友よ!
実をつけていないから、そこと導き救いゆくとは示すなり。
イエスよ!
汝、その命と迷いて覚め帰る事のできない、『失われた羊』こそを救う為に使わされて来たと申する事を知る事なり。
天の者みなその失いたる者、迷いたる者、見失いたる者こそを導き、救う為に道をなして、そこと示すと申すなり。
その見失いた者どもとは真に、その命に実をつけていないからこそ、救いの御手を与えるなり。
その命に実をつけた者のみを救うならば、誰でもできるなり!
実をつけている者はもともと、救われているとは示すなり。
誰が覚めた者、正しい命と生まれ得ている者を、救うと言うなり!
見失いて迷いた者、無知にして闇き者、その命に光をつけずと、実をつけない者達こそに光を与えて、救うべき者達なると示すなり。
その為に真理光明の智慧と開いて、正法を説きて示すと言うなり。
されば、神仏の光は全てただ闇これを照らす為にあると覚めて、その闇をこそ照らすのが道とはこれを示すなり。
その闇と見失いた命、即ち、実をつけていない無花果を見て、『今から後いつまでもお前には実がならないように』と言って枯らし滅してしまっては、永遠に救いはならぬと言うなり!
その命に実がならないから、哀れみ、慈しみと愛の心をおこして光を与えて、実のなるように覚めさすとは示すなり。
その為の導師にして救い主とは言えるなり。
これは命の世界であり命の教えなるに、そこに気づかずば、全ての人は救えぬなり。
命の実をつけえなかった人を、みなとり集めて炉の中に投げ入れてしまえば、救いはならぬと申すなり。
なぜならば、命の実をつけえなかった人々の方がはるかに多く、真実の命の実をつけえる人はわずかのゆえに示すなり。
イエスよ!
汝は、汝自身をしてその見失いた羊をこそ取り戻しに来たと言うのであるから、その者達こそ救いに来たと申すなり。
されば、実のつけていない無花果を見た時に、その道理こそ覚めるのが、愛にして慈悲とはこれを示すなり。
闇こそを払う光、闇に輝く月の光、全てを照らす太陽の光、そこと見つめよと言うなり。
全てを差別せず、全てに光を与える太陽と成る事こそが天の者の心これなり。
ゆえに私は、この無花果を枯らした汝を見て、それは誤ちにしてイエス自身の道、目的に反する事と言うなり!
されば真の救いとはいづこにあるか、よくと見つめよと申すなり。
イエスよ!
汝はその為に、闇き迷いの者達の中に生まれて、その中に入りて、道をなすとは申すなり。
信仰心のたりない者、迷いに迷いた者、見失った闇き者達ゆえに、汝の光を必要とした事を、よくと知れとは言うなり。
そのような者達にこそ大いなる慈しみの心と哀れみの心をおこして、その心をこそ導くのが、天の心と申すなり。
そこと見せた神通力も、ただ肉体を癒すだけで、その心を説くをなさずばまた真の救いにならぬと言うなり。
肉体の舟はその魂の乗舟にして、無常にして仮有ゆえに永遠の命に非ずと申すなり。
私はそのような肉体に対する力のみを見せて、その心を導き救わない聖書に示すイエスが、ものたりなきと申すなり。
イエスよ!
私は全てにその光明の命、智慧を与える為に大日として、道を説くとは言うなり!
ただその真実の命こそを救い導かんと思うのが私の願いのゆえと言うなり!
ゆえに私の万教と比べて、聖書は劣るものとは言うなり。
その命をこそ導き、一人一人の命を道と帰して、真実の命と覚めかえすのが一番の大切なると言うなり。
イエスよ!
人は全て差別なくその尊い命をいただいている神の子とは示すなり。
汝一人のみが決して神の子には非ずとこれも、実と証して示すなり。
イエスの愛と許しの教えと、矛盾する説教、矛盾する行動、ゆえにこれを示して、更に大きな救いの道、私は汝と全てに与うと知る事なり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌