『イエスよ、友よ!1』
貴方の世界の者として私に現じ来たりて、キリスト教として私に対して許すとか、許さないとか、言う者のあるに示すなり。
イエスよ!
その世界の者達よ!
汝等の申するところの許すとか、許さないと言うのは主従の関係において成立し、その差別によってまた言う言葉これなり。
許す者と許される者との関係は、その主と、その従、即ちそこに従いゆく者とにおいてのみ成立する事であり、そこにあるのはまさに、君主と家臣の姿であり、君主と民の姿これなり。
私はゆえにイエスよ、かくとは言うなり!
イエスよ、
汝自身は私の主か!
私の君主か、私は差別して慢じる者を主とする者ではなく、従う者ではない。
イエスよ、
私の説く万教これを聞く事なり!
それ即ち、汝の示す聖書をはるかに超えた、法教の世界とこれを知る事なり。
はたまたイエスよ!
貴方においては、同胞、異邦の差別をおくが、私は一切の民を差別する者にあらずなり!
そこにおいての機魂においても、私は貴方を超える者にして、貴方に従う者には非ずなり。
イエスよ例えばまた、宗教においてもそうである。
私は一切の宗教をひとつとして包む者であり、照らす者であり、導く者であり、その真実のところにおいて、守り、輝かす者である。
即ち、宗教において対立する者でも、対立する事をなさしめる者でも、教える者でもないのである。
はたまたその神をして神と神を争わしめるような、小さな神、低き神を持つ者でもそこに従う者でもないのである。
全ての宗教はひとつであり、全ての世界、全ての民族も、全ての生命もひとつであり、全ての神、全ての仏も、みな道においてひとつであるとする者であり、説く者である。
私は大いなる一義の教えを説きあかす者にして、同胞人、異邦人などと申して、国と民を分けるような小さな心と世界は持っていないのである。
ゆえにイエスよ、そのような全てにおいて、私は汝を超えて道をなす者にして、汝と汝の世界に従う者でも、従えられる者でもないのである。
されば、汝その世界即ち、キリスト教として私に対して、許すとか、許さないとかと申すのは、大きな誤ちであり、道理と道に反するものと言うのである。
イエスよ、私の教えはゆえに汝自身をも導くものであり、教えるものであると知る事なり。
私は逆に汝と汝の世界を大きく昇華せしめ、更なる世界へと至らしめるのであるから。
イエスよ、その使徒等よ、ゆえに私の人身としての上面で判断してはならない。
私の魂、心は無量広大にして、その光明は太陽と一なるに汝等にはかりきる事はできないのであるから。
太陽系の惑星が太陽を導くのではない!
太陽こそ全てに光を与えるものと、ゆえに命に知れと言うなり。
イエスよ、ゆえに私と現じたる汝の世界の全ての者達にこの事実をはなし聞かせて、私の法教こそ一と知りて、大切にする事を教えなさい。
そこにおいて汝のその全ての子達も悉く、大光明と輝くのであるから。
イエスよ、その使徒、信徒達よ、私はゆえに私と現じた汝等のその世界にこれを示すと言うなり。
許すとか、許さないとかは、仏陀の教えでも、心でもない!
全てを差別なく包みて一切を天と帰さんと願うのが仏陀の心なのであるから。
太陽は全てにひとつの光をあてて、差別する事はないのである。
ましてや、宗教において光を差別したり、神仏を差別したり、民において差別したりなど絶対にないのである。
太陽の光によりて輝く月もまたそう
であり、太陽界の星々もまたそうである。
この大地、地球もそうである。
私は太陽一如と成道した者であり、生まれた者ゆえに、私を従えるなどと考えるのは、ゆえにやめよと言うなり。
汝の神もまた私の心にこそ共鳴するのであるから。
(全ての無知なる対立こそやめよ!
第一義諦と悟り至りた者は、その無知無明からぬけているのであるから!)
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌