真の心、真の命とは3 | 太陽王法の会


『真の心、真の命とは!3』


精神、
心は本当の世界をさらに生きるのである。

人は人の心をもって生きられるであろう!

それも肉体が持つのではなく、
心がもちゆくのである!

人は、
肉体死すれば終わりであると思い、迷い、
苦しみ、
悪を繰り返し、
自分中心主義に生きている!

この世界が心の世界である事をよく見れば解るはずである。

人の心を写し形づくったのが、現象としてあらわれるのである!

苦しみも、
悲しみも、
怒りも、
喜びも全ては人の心である!

心がつくり生み出すのである。

人の肉体は精子から母の胎内で受精され、ひとつになって母の胎内で母と共に自然の恵みを受けて肉体を形づくり、赤ん坊として生まれ出てくるのである!

そして
赤ん坊は子供として成長し少年となり、青年となり、大人になるのである。

肉体は休むことなく生滅変化しながら存在し、変わってゆくのである。

それは自分をふりかえれば誰でも解る事であろう。

赤ん坊の時の肉体の自分と今の大人の自分の肉体の違いは、誰にでも解るのであるから。

肉体は、
このように生滅変化をして現在に至るのである!

この生滅変化して生まれ、
死に、
変化している細胞が本当の命であるなら、例えば腕を切り落としても人の命であろう!

その
切り落とした腕が動くであろうか、足を切り落としてその切り落とした足が一人で歩くだろうか!

切り落としてた
身体はもはや人の生命をそこにとどめていない物体であり、それはもとの自然に帰りゆくのである。

その腕も、
足も自然の恵みを受けて人の肉体として形成してきていただけなのであるから。

腕も足も、
人として切り離されずに存在して、意識の力で動くのである!

意識無くしてその生命は存在しえないのである。

意識が人の本体なのであるから、
その意識の中心が心なのである。

その心は
空に存在し、
その肉体を離れても存在し、生きゆく世界があるのである。

そこが本当の世界なのである。

人の意識、
記憶、
心が人間を形成するのである!

心の形成こそ人の務めであり、
人の生きる目的である!

心とは人の本当の命なのである!

全ては心なのである。

赤ん坊の身体は
成長し、
少年となり、
少年もまた成長し青年となり、
大人となる!

大人になって自分を見て見よ!

少年の
身体はもはやそこにはないが、
少年の頃の心と思い出は、そのまま失わないのである!

これも人の本体の生命が生滅変化する肉体ではなく、心であるという証なのである。

人の心は、
精子としての肉体に宿っていたのであろうか!

それとも卵子としての肉体に宿っていたのであろうか!

心と
人としての記憶、これはどこからきたのであろうか!

精子と卵子は結ばれてひとつである!

赤ん坊に笑うという事を教えたのは精子であるか、
卵子であるか!

赤ん坊に
乳を飲む、
泣くという事を教えたのは、
精子であろうか、卵子であろうか!

そしてその前に人間の形をつくるという記憶を持っていたのは、
精子だろうか、
卵子だろうか!

赤ん坊はみんな持って生まれてくるのである!

泣く事も、
笑う事も、
怒る事も、
乳を欲しがる事も、みな持ってくるのである!

それをよく考えて見る事である。

肉体を形成するのも心(識)であり、心が人の命なのである。

その心は、
人に見る事も、
出して見せる事もできなければ、
つかむ事も、
示す事も、
はかる事もできないのである。

しかし、
ハッキリと存在するのである!

人は、
見えない世界は無いと言う!

それなら見えぬ心も無いのであろうか!

言葉は心である。

肉体を形成するのも心(識)であり、心が人の命なのである。

その心は、
人に見る事も、
出して見せる事もできなければ、
つかむ事も、
示す事も、
はかる事もできないのである。

しかし、
ハッキリと存在するのである!

人は、
見えない世界は無いと言う!

それなら見えぬ心も無いのであろうか!

言葉は心の声である!

その言葉は見えるかというと見えない、見えないから無いのであろうか!

みんなハッキリと存在するのである。

人は言葉を語らず心と心で話す事ができるではないか!

目と目でわかりあうではないか!

このように見えぬ世界でも、実体として存在するのが心である。

その
見えぬ世界こそ、人の世界であり、命の世界、
本当の世界である事を、それが存在することを知る事である。

空こそ、
本当の世界でありその空にある心、精神、
魂が本当の命なのである。

その心は、
この宇宙の大いなる意識、
大いなる精神、
大いなる意思と通じているのである。


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌