『資本(蓄積)と経済(節度)』
資本とは蓄積する事なり!
そして
滅する事なく
減らす事なく
廻らす事なり。
経済とは足るを知りて節する事なり。
すなわち、
資本主義経済の根本の相は、禁欲的な節度ある精神をもった生き方をもって、資本を大きく蓄積してゆく事にあるのである。
その資本の蓄積によりて、大いなる富を万民に分け与える事が出来るのである。
個々の生命
生活の中心は、
物では無く、
金では無く、
精神であり、
心である!
全ては、これによって苦楽するのであり正しく真理にそいた精神が行き渡る事が、最も大切な命の生活なのである。
個々の万民が
足るを知り、
道理と覚めて、
無駄をなくして生活する事で資本を蓄積する事である!
すなわち、
経済の本義であり真実の意味であるところの節を知る禁欲的な生活、
すなわち、
足るを知り、
全ての無駄を無くした、物を大切にするという当たり前の生活にかえる事である。
経済とは、
不経済な事をすることにして成るのでは無いのであるから、そして命である精神生活、識心、心ある生活をする事が最も大切なのである。
そこにおいて力を合わせて働きゆく事で、資本を蓄積してゆく、その蓄積された資本が万民に行き渡ってゆく事、それが真実の富と豊かさを生むのである。
人よ、これが資本と経済の当たり前の道理である。
人よ、節度をもって足るを知り、
無駄の全てをなくして節約し、全ての物の本質を見つめて、物の親である自然に感謝し、物の全てを大切にし、生かして長く使う事を本分とし生活すれば、自然と経済は立つのである。
その上で、健康で元気に働くを楽しみて生きれば、
資はおのずから蓄えられて積み上げられるのである。
そこに当然の如く富は生まれ、豊かさが生まれるのである。
その富がめぐりゆく事によって、そこにおいて資本主義経済の本義本道が立つのである。
この当たり前を知りて生きる者こそが、命に真実の富を得るのである。
人にとって一番大切な富を得るという事は、充実した精神を得て、真実の心を得る事である。
ここにおいてその命は安定し、真実の自分を見つけ得るのであるから。
人は命というものの本質をもっと見極めて
物文化より、
精神文化へと、
本来のあるべき命の営みへと回帰する事である。
真の富はそこで成り、資本主義経済もつまるところそれを指向し、目指しているのであると知る事である。
この世界は大いなる命の世界なのであるから。
自然に木々を植えて植えて道溢れさせる事は、資本を蓄積する事である。
その蓄積された木々が万民のために正しく廻らされるから、富はそこに生まれるのである。
この資本を蓄積せずに滅し続けてゆく事は、資本主義の原則に逆行した行為なのである。
家財を滅し続けて富など生まれないし、資の廻る事もないのである。
万民が当たり前の如くそね空きたる地に欲得なくして木々を植え育てる事を知りて生きれば、それは天下に道溢れるのである。
そして資本の理にそうてよく蓄積する為に、節度を知った生活、全ての物を大切にし、
無駄を悉くはぶく生活を当たり前の如く知り生きれば、資本は更に増大してゆくのである。
そして、その増大した資本を増やしつつ廻らしてゆけば、その富は行き渡り万民のものとかえるのである。
この当たり前を忘れて資本主義経済を論じる者は、
義も道も、
意味も解らずして盲論を申すだけの者となるのである。
真実の命の
ありかたを知り、節度ある生活をなして精神こそより豊かに育て、資本をあらゆる分野において蓄積するを知る人々こそ真の資本主義を生きる人にして、経済人と言うのである。
人はゆえに自ら達の無知に気づきて、命の生活を取り戻す事に覚めねばならない。
なんの為に生まれてきたのか、なんの為に生きるのかわからない生活はすてる事である。
そしつ、道と徳行こそ修して、命の安定した大いなる安楽大道の生活へとかえる事である。
その為には
道徳を知り、
真理、
命の世界を知り、その教えこそ大切にして本来の人間の人間たる生き方があるのであるから。
人にとって真理の智慧をもった生活こそ最上の生活であることは、一切の仏達も説き、私もまた説く事なのであるから。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌