大いなる創造識!2 | 太陽王法の会


『大いなる創造識!2』


天地大自然すなわち、みなこの創造の働き無くしては生まれないのである。

人は、
その当たり前を見てそこにこそ大いなる世界を知り、大いなる神、真理を見よと言うのである。

人は常に、
自分中心主義に考えるから、真実が見えないのである。


自分達の考えが
絶対であり、
自分の計らいの上ではかり決めつけて、その考えにあてはまらないと、なんでも否定したがるのである。

ゆえに、
自分達がそこに存在しているという事実の中にこそ、神を見よと言うのである。

自分達の
創造し、
形成し、
生みなす働きは、全てその大いなる世界の働きを真似しているだけなのであるから。         

真理の大いなる存在を否定し、その創造の原理を否定するならば、
人よ、
白紙を前において
なにも考えず、なにも思わず、
なにも創造せずに絵を描いて見よ、!

対にできないであろう!

描けても出鱈目な線のみであろう!


それでは、
この天地にあるように整い、
全て道にそいた、それぞれが生まれるであろうか。

例えば、
自然の営み、
流れ、
全て、
真理のもとにそろいてなるという事実はなんと言えるのであろうか!

出鱈目に勝手にこの天地と、全ての世界が生まれたと思う方が、この上ない無知の証拠である。

花のひとつひとつを見て見よ!

その全てが、
勝手にそれぞれに成ったと言うのであろうか!

その生命と
生まれるには、
その因縁によりてなるは当然であり
その因縁の始めに、その創造があるのは当たり前であり、ゆえにこの生命創造識と、
生命形成識と、
生命維持識と、
生命存在識と、
破壊・再生識のある事実を見つめ見よと言うなり。

全て虚無からはなにも生まれず、
生む世界無くしては絶対に生まれえないのである。

この大いなる創造の中にこそ、人はゆえに神を知れと言うのである。

(創造・維持・保存・破壊・再生は宇宙の原理である。
創造の原理にはその創造識があり、その識には、
それを創造する存在があるのは当然である!
その創造主を神と言うなり。
なにも無い虚無からは絶対なにも生まれないのは当たり前であるから、神の否定は大きな間違いである。
人が物を生み出すとき始めに創造識があり、そこから形成が生まれる!
その創造には創造する人が必ず存在するのも当たり前である!
始めに創造があり
そこにそれぞれが生まれる!
そこに神を知れと言うのである。)


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌