死としての道!1 | 太陽王法の会


『死としての道!1』



枯れるを知りて、おもいきり咲かせてゆくところに、花の花としての価値これあり!


命またこれなり。


枯れると言うのはゆえに、その命を命として精一杯咲かせるため、輝かしめる為にこそあるなり。


死とはまたそのように見つめて見るのが正しきなり。


死は生を生たらしめて荘厳する為にあるなり。


枯れる花が芽を出し、成長しつつ、おもいきり美しい花と咲かせる。


その枯れるという道ありてこそ、その花は命を輝かしめておもいきり荘厳するのである。


死もまたその命の為に、そこにおかれる道これなり!


されば死を暗いものとして怖れずに、生を生たらしめて輝かし、生かすため、荘厳する為に命を生きる事である。  


生の道を道として、おもいきり生きて生きる為に、死としての道もまたそこにおかれる。


人生を意義あるもの、命を価値あるものとする為に、死はそこにおかれて、道となすなり。 


死はそこにありて、人生を価値あるものとするなり。


死はそこにありて、命を価値あるものと変えるなり。


死はゆえに価値あるその命を生きておもいきり生かしめるために、そこにおかれるものと知る事なり。


さればその死は、その命そのものの消滅では無くして、命の為の道としておかれるものと知る事なり。  


死がありて輪廻があるに、全てがそこにおいて精算できるのである。


例えば人として生きて権力を持ち、他を苦しめたる者は、死によってそこから離され、輪廻の道と入るのである。


されば苦しめられたる者達も、死によりてその苦しみより離されて、輪廻の道と入るのである。


されば死は道として人を正し、清め、命その道を常に守るものとなりなり。


死によって平等とかえされ、その生きた業によりて、それぞれの道と入れるのである。


この死の役割と道に気づいて人々は、その命を正しく生きよと言うのである。  


枯れる事は、その咲きゆく花の命を価値あるものとなしゆくなり!



太陽の法嗣


大日天光子


合掌